京都府立木津高等学校同和部編『胸はって生きる』

私は部落出身ということに対して、いやだと思うんじゃなく、人権学習という勉強を、生徒のみんなでするのがとてもいやでした。その時は、他の生徒の人たちに、自分が部落の出身だとばれたらどうしようという心配があったし、こんな勉強するからみんなが「部落差別」という言葉を知っていくので、いちいちそんなことを教えなくてもいいんじゃないかと思ってました。
また実際にあったことで、人権学習のある前の休み時間に、私は友達に「なんでこんな勉強しやんなあかんねやろなあ、別に関係ないのに」といわれて、何も返事をすることができませんでした。「うん」となんでもないように返事をするとウソになるし、だからといって怒ることもできないし…。
ただ笑ってごまかしていました。
人権学習がはじまってからも、男子たちが、人権学習のプリントを飛行機にしたり丸めて投げているのを見て、ちゃんと読んでほしいと思っても、決して注意することはできませんでした。
今から思うと、すごくはずかしいと思います。しかしその時に、「それは違う」「やめときや真剣に考えさ」といえる人は、少ないように思います。しかし私がその時に思った気持ちは、もう誰にも味わってほしくありません。
だからこそみなさんに、部落問題について、しっかりと考えてほしいと、思うのです。もちろん部落出身の私たちがもっとしっかり勉強していかなければなりません。

しかし、「私は部落じゃないから関係ない」というのではなく、みんなに考えてほしいと思います。

1994年、3年生人権学習感想文


なにげない言葉や行動が、深く人の心を傷つけているということに、気づいたことがありますか。
「次の時間は何や」
「また人権学習らしいで」
「ええっ、もうそんな話はききたないし、授業さぼろか」
「でも、またあとで、担任に怒られるで」
「そやな、しゃあないし、教室にいこか」
こんな会話が、教室でかわされていませんか。この会話の中の「人権学習」という言葉を、「英語」や「数学」や「理科」という言葉に、おきかえてみてください。
そうすると、この会話は、本当に日常的に教室の中で話されているものになります。その延長線上で、「人権学習」の時にも、こういった会話が、よくかわされるわけです。
「英語」や「数学」や「理科」という言葉の場合には、その教科を担当する教員が、少しは傷つくことがあっても、ほとんど問題にはなりません。
しかし、「人権学習」ということになると、それを聞いた部落出身生徒や在日朝鮮人生徒は、とても複雑な気持ちになるのです。
1922年に、全国水平社が結成されて、すでに70余年の歳月がたちました。部落解放運動の長い苦闘の歴史の中で、表だって部落差別を肯定する意見をいう人は、ほんとうに少なくなったと思います。
露骨な差別表現は、目の前から消えたのですが、残念ながら、無意識のうちに人を傷つけたり、無知のために人が傷つくということが、いまだに日常的におこっています。
「私は差別をする気はないし、いままでも差別したことはない」という前に、もう一度自分がしてきたことを、きびしい目で、徹底して見つめなおしてみてください。
そのきっかけとして、本書が役立てればと考えています。

「はじめに」より

A5判 89ページ
頒価 700円



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