14回全外教セミナー奈良集会
シンポジウム「四半世紀の歴史を踏まえた今後の全外教運動」

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司会  テーマは「四半世紀の歴史をふまえた今後の全外教運動」です。シンポジウムにつきまして質問等がございましたら、質問用紙がございます。質問用紙の方にご記入いただきまして、係のものにお渡しいただければと思います。よろしくお願いします。この後の進行につきましてはコーディネーターの全外教の寺井秀登が行います。では、寺井先生、よろしくお願いします。

寺井  みなさん今日は、ご苦労様です。シンポジウムということで始めさせていただきたいと思いますが、前段の講演が30分押しまして、少し日程を変更していきたいと思っていますので、大変申し訳ありませんが、シンポに入る前に資料集の17ページをご覧ください。先ほど花束をお渡しいただいたんですが、強制収容を考え子どもの発達と学びを守る熊本の会から2名、今日ご参加いただいてます。これからご紹介する2名は実は4時過ぎには、飛行機の時間の関係上この会場を後にして熊本の地に帰るということで、時間の関係でシンポに入る前に熊本からアピールということでお時間をいただければと思います。じゃあ、熊本のメンバーよろしくお願いします。

熊本の会  すみません、再び貴重なお時間をいただきました。ありがとうございます。2年前の11月5日に、目の前の子どもが強制的に連れていかれて収容されました。その時に私たちはどうしていっていいのか、どういった行動をとっていいのか、どんなふうに考えたらいいのかといった時に、1本の電話を藤原会長にかけさせていただきました。その時に奈良の桝井さんを紹介していただいたのが、1番最初の始まりです。それから私たちの行く先々に灯台の灯りのように照らしていただいたり、後ろからしっかりと支えていただいて、「振り向けば全外教」というような2年間で、今日までやってきました。

 12月15日、この井上鶴嗣さん、元中国残留孤児でおられるおじいちゃんなんですけれども、その方がお話されます。それから、高校生の交流集会の時にアピールさせていただいた子どもたちのお父さんである、好平さんが9月の17日に約2年ぶりに仮放免ができました。その井上好平さんが意見陳述を初めて裁判所で述べられます。もしよければ福岡の方に足を運んでいただければ、私達はとても心強く思っております。これから先もこれまで同様しっかり頑張っていきますので、よろしくお願いいたします。

寺井  はい、ありがとうございました。今おっしゃっていただきましたように15日、このセミナーが終わって月曜日ということになりますが、福岡高裁の501法廷、大法廷になります。傍聴席が70ほどあるわけですけれども、その70席を埋め尽くしたいということもありますので、ぜひともよろしくお願いしたいと思います。

 それでは、第14回の全外教セミナー奈良集会シンポジウムに移らせていただきたいと思います。14回セミナーということで企画をさせていただきましたけれども、この企画につきましては第15回、滋賀県で開催を5月に予定しておりますけれども、14回、15回と連続のセミナーを持たせていただくということで企画を進めさせていただきました。シンポジウムの題にもありますように、『4半世紀の歴史をふまえた今後の全外教運動』というテーマで、2回の連続セミナーを持たせていただければと思って、今日が第1回目になるわけです。4半世紀を迎えた歴史については先ほどの藤原会長の講演の中で、充分お話がありましたので、私の方からそのことを振り返るということはひかえさせていただきたいと思います。

 このセミナーが始まったのは96年の神奈川集会が第1回目でした。その時に全朝教セミナーという形で始まったわけですけれども、多文化共生教育を考えるセミナーということで、今回まで14回を迎えるに至りました。さらには、79年の結成から25周年、4半世紀を迎えようということで、これまでの歩みを振り返って、今後の全外教をどうつくっていくのかということで、本日は4名のパネラーのみなさんにおそろいをいただきました。そのパネラーのみなさんからそれぞれご発言をいただきながら、さらに今日お越しの皆さんからもご意見をいただいて、今後の全外教をどうつくりあげていくのか、みなさんとともに考える時間として、このセミナーをあてていきたいと思っておりますので、よろしくお願いしたいと思います。それでは、資料集の順番どおりに少し発言をいただくということで、最初のマイクをお渡ししたいと思いますが、初めに自己紹介ならびにそれぞれの各地の紹介を、少しの時間ですけれどもお願いをしたいと思います。それでは韓さんの方からお願いします。

 みなさん、こんにちは。いつも会長がお世話になっております。兵庫の韓裕治です。よろしくお願いします。在日の朝鮮人3世です。兵庫県神戸市の長田区というところで生まれました。1965年生まれです。長田区というのはみなさんご存じだと思いますが、外国籍、特に朝鮮人が多住する地域でして、地場産業であるケミカルシューズの製造に従事している方がたくさんいらっしゃいます。 レジメの方に書かしていただいているんですが、人口10万人、震災前は11万人ほどいたんですが、震災後だいぶ過疎化が進んでいます。町を見ましても、家があったところが駐車場になっているところが多いです。数を数えますと、約8パーセントほどが外国人。

 私は中学校で働いているんですが、12月に人権授業発表ということで少し神戸市の中でも大きな会をしました。本校で人権授業の発表をして、他校から先生方に来ていただくという会をやったんですが、それを迎えるまでに子どもたちと1緒に人権学習をしていくわけです。その中で「長田には1体どれくらいの外国人が住んでるやろな」という話をしました。1年生の頃からの総合学習で、「地域を知る」ということをやってましたので、それに関連づけてやったんですが、最近のはやりで言いますと、例えば長田区を人口100人の村やとしたらそのうち何人が朝鮮人だろうという話をしますと、子どもたちから出てくる答えは20人とか30人とか大きい数なんですね。いやそうじゃなくて実際は7人ぐらいやでという話をしますと、驚きの声があがるんです。100人中7人でも多いと思うんですが、子どもたちにしますと、20人ぐらいおるやろ、30人ぐらいちがうかという感じなんですね。それほど町の中には韓国に関するものがあふれています。あふれると言いましても大阪の生野ほどはいかないんですが、地域のマダンがありましたり、朝鮮市場のようなものがありましたり、隣の子が本名で通っている姿もありますので、それほど身近に感じてくれてるんやなあということです。

 また後の方でも話したいと思うんですけども、すごくこの1ヶ月ほどは気持ちのいい学校生活を送ってまして、その人権授業をやっていく中で、最終的に研究発表授業を5クラスの担任、私は2年生ですが、5クラスの担任がそれぞれの教室で、同じ教材で授業やるわけですが、その中で在日の女の子ですね、通称名で通っている子が本名宣言て言うんですか、在日宣言をしました。後で私はその担任から聞いてすごいことだと思ったんですが、絵に描いたような、私たちが人権教材としてこんなようなことがあったらすばらしいなと思えるほど劇的な本名宣言だったらしいです。それをどちらかと言いますと、私からも叱ることが多い女の子ではあるんですが、その子が自分の本当の姿を私たちが計画している人権の授業の中でしてくれるということは、すごくうれしいことで、ここしばらくいい気分で生活させていただいてます。また兵庫の紹介とかさせていただきますので、ご質問とかありましたらよろしくお願いします。

寺井  はい、ありがとうございました。続いて奈良からです。谷さん、お願いします。

 こんにちは。多文化共生フォーラム奈良という教員のグループのメンバーです。県内の北の端にある東大寺学園に勤務しています。全外教とのかかわりなんですけども、勤務校の実践を奈良で2回目の全外教研究集会があった時に報告をしました。僕の報告というのは、当時うちの学校では把握できる在日コリアン生徒はわずかでした。その子どもたちを何とかいろんな子と出会わせたいと思っていたのですが、僕は当時自分で生徒たちにいろんな話を充分するような力量がなかったので、卒業生に来てもらい在校生とつないで、そこでいろんな話をさせたいというようなとりくみをしていました。その話を全外教の奈良大会で、報告させてもらった時に、その部屋に藤原先生がおられました。雰囲気としては「お前の思いを生徒に語れよ」という雰囲気が会場にあったんですけども、藤原先生は、「まあまあ、東大寺学園みたいなとこでやっとるんやから、それをまずスタートの1歩として認めてやろうや」みたいなことで、そういうきっかけで藤原先生とはおつきあいが始まったわけです。

 「多文化共生フォーラム奈良」は、奈良の先生達にもあまり名前を知られていないかもわからないんですけども、前身は「奈良・在日朝鮮人教育を考える会」と言います。「在日朝鮮人生徒の進路保障をどうすればよいのか」と悩んでいた教員たちにより、1979年に結成されました。発足と同時期にソダン(現在、奈良県外教に引き継がれている在日外国人生徒交流会の前身)の活動も始めました。この外、考える会の活動は、在日外国人教育にかかわる連続講座の開催、通信の発行などがあります。80年代では、高校生の声に応えて全国的に広がっていった指紋押捺闘争をとりくみました。1986年、先ほど藤原先生の話の中にもありましたが、県レベルとして初めて外国人教育指針をつくったり、あるいは、奈良県外教を発足させたりしました。考える会は現在では県外教とともに、県内のいろんな外国人教育にかかわる問題をとりくんでいます。

 1990年ぐらいから奈良県でも「新渡日」の子どもたちが学校に通うようになってきました。その頃から、外国人の問題は在日コリアンの問題だけではなくて「新渡日」の子どもたちの問題も指摘され始めました。在日外国人の保護者が活動を始めましたし、在日外国人児童・生徒を支援する市民グループも出てきました。このようにして奈良ではいろんなことをやってるんですけれども、外国人の子どもたちの状況は依然として厳しいものがあります。何回も話が出ておりますが、コリアンにとっては拉致問題が明らかになって、学校においても、あるいは地域においてもいろんなしんどいことが出てきました。「新渡日」の子どもたちにとっては、母語を保障できないため、例えば親子間でもコミュニケーションができない家族が出てきています。また、日本語の習得も不十分なため、学校に行っても学習に全然ついていけないということが、指摘され続けています。しかし、これらの問題に対して有効な方策が今のところつくられていない。いろんなことがやられてるんですが、学校に就学できない外国人の子どもが明るみに出るなど、問題は山積するばかりです。このような課題の広がりに対応しようと、4年前に「奈良・在日朝鮮人教育を考える会」は「多文化共生フォーラム奈良」へと名称を変更しました。来年、全国の研究集会を奈良で20何回目かの大会を持つことになるのですが、たくさんのレポートを奈良から出して明らかにしていきたいと思っています。

 今日のセミナーでは僕の方からは、僕自身も長いことかかわってきました外国人生徒交流会について、報告をさせていただきたいと思っております。それと袋の中にハングルで書かれた『ナラ』といいう冊子が入っています。これは多文化共生フォーラムの通信です。多文化共生フォーラムのいろんな活動については、この冊子を見ていただくとして、今日の僕の話は奈良でやっています生徒交流会の話を中心にさせていただきたいと思います。ではよろしくお願いします。

寺井  はい、ありがとうございました。来年奈良大会は25回ですね。続いて鳥取の三谷さんの方からお願いします。

三谷  こんにちは。鳥取の三谷といいます。よろしくお願いします。資料の方は9ページの方になります。年代別に書いてありますので見てください。ちょうど私50才になりますが、実は全外教とのかかわりはそんなに古くはありません。本当に最近と言ってもいいと思います。ある面では歴史を持っておられる兵庫県やそれから今お話をされた奈良県のような状況ではなく、後から追いついていこうというとりくみをしている1つの例として今日はお話をさせていただければ思っています。

 私と全外教との出会いということになれば、95年ぐらいからです。実は、その前に兵庫県内で行われていた集会には、私ではなく私の妻も小学校の教員してますので、県同教のかかわりで兵庫県外教の集まりに何回か出させてもらったことがありますが、私自身は95年からでした。私自身は、その2年ほど前なんですけれども、みなさんご存じかどうかわかりませんが、鳥取の中部に三朝温泉という温泉があります。その温泉のある町内の小学校で勤めていた時に、日本名で暮らす3人の在日コリアンの姉弟との出会いがありました。そのことをきっかけにして、その子たちとどうかかわっていくかという話から、県内で在日問題を学ぶところがないということに気づいたわけです。要するに県内ではほとんどそういうとりくみがなされてなかったし、実際にはあっても、それがいわば共有されたものではなかったというところから、全外教にかかわりを持ち始めたということなんです。

 県同教なりの研究集会でも、今から調べてみると、報告がまったくなかったわけではないんです。ただそれが、非常に単発的でその場限りの流れの中で行われていたということがありましたので、何とか自分たちの思いを共有できる会をつくりたいという願いで、まず自分の住む地域での活動を始めました。そうしているうちに、それこそ鳥取に大変思い入れの深い藤原会長と出会いました。そうしているうちに、この全外教を運営する全国運営委員会に参加するようになり、現在にいたっています。

 その後、広島大会の時に、広島の状況、現在でも大変厳しいものが連日にわたって新聞に出ています。先日も私の学校でもとりくんでますけれども、広島の学校で平和カレンダーを全部の教室からはずしていくというような内容が全国紙に載っていました。逆にこちらは同じ中国のなかまとして、ぜひとも広島でそのような状況があるのなら鳥取の教室をそのカレンダーで埋めていこうという、県教組の方にも提起をして今進めているところです。広島大会の時に、とにかく広島を支えていく中国のなかまとして、先ほどもありましたけれども、岡山も島根もそれから山口も、中国5県の中で言えば、このような形で全外教との結びつきが組織的にあるというところはまだないです。広島と私のところぐらいです。今私は、そういう意味で岡山の方へ出かける機会をたくさんつくって、岡山の仲間がある面でそういう組織だった動きができるようにと思って、それなりに頑張っています。そういう意味合いで、全外教の方の1つの役職をさせていただいておるというところです。

 私自身は小学校の5年生の担任です。昨日もじゃあ行ってくるからといって昼から抜け出してきたんですが、小さな60万の県の中で、4500人、今外国籍の方達がいるんですけれども、本当になかなか進まない状況をこの後少しお話しさせていただければと思っています。鳥取県外教という名前は、他の県外教と同じような県外教の名前を使っていますけれども、私たちの会は実は3地区にわたってそれぞれこつこつやっているグループの連絡会です。ですからそういう意味からいうと、どこからも支援を受けているわけではありません。自腹を切った運動をやろうという中身でかかわりを持っております。

 それから、今から考えてみるとそういう時代なのかなというふうに思うんですけれども、私たちが会を発足する当時から、実は県内では先ほど言ったように在日コリアンの方達は、4500人のうちの約1700人ぐらいだったです。今減ってきましたから1500人弱ぐらいですが、そういう関係で、実は民団、総連とはあらゆる活動ですべて共同歩調をとってとりくみを進めてきています。いわば民族団体と私たち県外教と三者が同一歩調をとりながら、あらゆる面で活動をしてきています。その辺についてもまた触れたいと思います。よろしくお願いします。

寺井  はい、ありがとうございました。引き続きまして、山梨からご参加いただいてます今澤さん、お願いします。

今澤  山梨の今澤と言います。よろしくお願いします。資料の方にも書きましたけれども、山梨の現状ということで、まず「全朝教ってどんな字を書くの」という土地柄です。全朝教の大会に夏行ってくるんだということを仲間の教師達に言うと、「何それ?どういう字?」っていうことで、全朝教、全外教というようなそういう名前とか、そういうことがまったく知れ渡ってない土地というか、そういう場です。イコール解放教育、在日朝鮮人教育という土壌がまったくないようなそういう土地です。そういう中で、「新渡日」の子どもたちが非常に増えておりまして、他の県に比べても、人口比率から言っても、非常に「新渡日」の子どもたちがたくさん住んでいるというのが山梨の特徴でもあります。

 自分ですけれども、中国の帰国の子どもたちがたくさんいる学校に新採で入りました。そこから外国人の子どもたちとのつきあいが始まりまして、うまく自分のとりくみがすすまない。そういう中で、善元さんの著書であるとか、そんなものをよく見ながら自分なりの実践でいろいろ悩んでいました。そういう中で、全朝教の福岡大会で僕はデビューをしたんですけれども、山梨で初めてのレポートを全朝教に出さしてもらったということで、福岡大会でデビューしました。

 実はその前ふりがありまして、その前の年に日教組の大阪大会がありました。その時から全朝教とのおつきあいというか接点が生まれます。それが縁になったんです。大阪大会は広い体育館のような場所でたくさんの分科会が、壁1枚、パネルみたいなもので仕切って分科会をやっていたので、マイクが禁止になって、それからレポートの前と後の拍手を辞めようという取り決めをしました。僕が国際連帯の教育の中で中国の子どもとのとりくみをちょっと発表したんですけれども、その発表が終わった時に後ろから高い拍手がパアーと聞こえまして、「おいおい、ここは拍手禁止じゃないか、何だ」と後ろ振り返ったら、藤原会長が1人で、でかい拍手をしていまして、僕は藤原会長のことまったく知らなかったもんで、ちょっと失礼ですけれども、「なんだこのおっさんは、何なんだ」と僕まで恥をかいたような気になってしまいまして、本当に1人でかーっと熱くなってしまいまして、山梨から拍手をさせるために連れてきたんじゃないかと、そんなふうに思われやしないかといろいろ自分のレポートどころじゃなくなってしまいまして、本当にそれからは下を向いてしまったんです。

 その後、1人の人がたくさんの本を持ってきまして、すっと後ろから今の発表すごく感激したという言葉かけてもらって、振り返るとやっぱり見たこともないような人がいました。その人が、ぜひこの本を読んでくれと、全部あげるからと、見ると全朝教のブックレットをすべてセットにして、これをあげるからということでもらいました。僕は全朝教というものも知らなかったから、なんかこう、宗教の勧誘のような、そういう意識でまともに聞いていたら引きずり込まれるんじゃないかとか、わかりましたと言うことでちょっと避けたんですけれども、それが桝井先生なんです。その時から全朝教とのかかわりが始まりました。

 こういう全朝教という福岡で大会があるからぜひ今回のとりくみをレポートで出して見ないかというように言われたんですけれども、全朝教というものもまったく知らないし、どうしたもんかなというふうに思っていたんですけれども、その夜、大阪大会だったんで、国際連帯の大阪の人たち、全朝教大阪の人たちと飲みに行きませんかと誘われて飲みに行きました。その時全朝教について、始まりからその時起こっていたことからいろいろ聞かされまして、全朝教のことを知りました。それで、そういうところにレポートを出すということに関して、非常に自分の実践に自信がなかったったんですけれども、大阪のある全朝教の先生から、いろんなことあるんだけれども全朝教が培ってきたものは非常に貴重なものであるし、そういうとこにレポートを出すということは勉強にもなるからぜひ出してみてはどうかというふうに言われまして、そして福岡大会に出させていただくことになりました。それがきっかけになったんですけれども、本当にこのすばらしい出会いは、大阪大会のうしろで拍手をしていただいた藤原会長、それからたくさんのブックレットをくれた桝井先生からの縁でした。そういうすばらしい縁でこんなふうにここでしゃべる機会もいただきました。

 今日は東の地からの視点ということ、全朝教、全外教というのは本当にどんな字を書くのという土地柄から見た、また「新渡日」の課題が非常に表面化している、逆に在日コリアンの問題がその陰に隠れてしまっているという、そういう土地柄から見た全外教、全朝教のこれからを、ちょっとおこがましいんですけれども、そういう視点から見たものということで聞いていただけたらということで、参加させていただきました。よろしくお願いします。

寺井  はい、ありがとうございました。4名のパネリストのみなさんに自己紹介をしていただきました。最初は兵庫の韓さんから始まって、「なんだこのおっさん」で終わった4名の自己紹介は、みんな会長がらみという、何と存在の大きい会長を我々組織は持っているんだろうというふうに、あらためて4名の自己紹介の中でも感じさせてもらいました。さて、この後、それこそこれからの全外教を考えるというテーマで話の中身を進めさせていただきたいと思っています。そういう意味では今日4名こうやって座っていただきましたけれども、会長も講演の中でおっしゃっていただいたような、いわゆる全外教の組織というのが、こうした方達が各地でとりくまれている、そうした各地のとりくみを本当に大事にしながらつながってきている組織なんだというお話が講演の中でありました。

 1979年、会長のお話にもありましたけれども、全国在日朝鮮人教育全国協議会という準備会が大阪で誕生しました。その時に、今日もこの会場におこしをいただいていますけども、先ほど今澤さんが紹介をしていただいたブックレットの1つに、中島智子さんのお書きになった本があります。いわゆる25年前に、私たちが組織を立ち上げる、それまでの解放教育、あるいは同和教育の流れの中で同じものということで、どうして差別が存在するんだという追求の中で、在日朝鮮人の子どもにかかわって、やはりきちっと韓国・朝鮮籍の子どもたちをしっかりと見つめていくという、そういう出発が実は25年前の79年の組織準備会の結成であったろうと私自身思っています。そこから4半世紀経とうとしているわけですけれども、いつもいつもそういう意味では、ここまで来た25年間の中身を振り返る、あるいはそれを振り返ってしっかりと確認をするからこそ、次の1歩が生まれていくというふうに思います。

 次の発言は、各地での特徴的なとりくみを、それぞれ4名の方々から紹介をいただきたいと思います。自己紹介の中でも、全外教とのかかわりということであったわけですけれども、地元でのとりくみということをご紹介いただきながら、今後の全外教を考えるきっかけに話のポイントを絞っていただければと思います。少し予定の時間よりちょっと短い目でみなさんお願いします。じゃあ韓さんの方からお願いします。

 はい。兵庫の特徴的なとりくみということなんですが、レジメの4ページ、5ページに書かせてもらってます。他府県の県外教と同じようにそれぞれ、啓発運動と言うんですか、教育はやっているのは同じだと思うんですが、兵庫に特徴的なのは、私もそうなんですが在日の教員が多い。大阪や東京に比べると少ないとは思うんですが、私はずっと「人権同和の不毛の地、兵庫」と呼んでいるんですが、そういうところでこんなに、20名を超える教員がよく誕生しているなという気がします。先ほど会長の話もありましたけれども、藤原先生、そして西の方に行きますと高砂というところに神谷先生という方がいらしゃいます。今日も会場にいらっしゃいますけれども、西宮の方の小西先生、芦屋の方には兵庫県外教の事務局長の辻本先生という方がいらっしゃいます。4人の先生方に私が最初に会った時は、大学を卒業する前ですから22、3の時ですが、「この人たちは1体何をやっているんだろう。朝鮮人でもないのに朝鮮人のことばかり考えてよくわからない人やなあ」と思ってたんです。

 そういった方々が、やはり現場に朝鮮人の教師を立たさなあかん。自分たちが、いくら日本人の教師が、ああやこうやと言っても子どもたちになかなか希望や未来がない。朝鮮人でも教師としてがんばってやっていけるんだという姿を見せなあかんということで、兵庫では教員採用に向けてのとりくみが盛んに行われてきました。その結果、こういった具合に数がどんどん増えています。それがすごく兵庫が他府県に対して誇れるところかなと考えています。実際、私が学校の中で人権同和教育の担当をやっておりますので話をするんですが、どうしても私が子どもたちに朝鮮の話ですとか、本名の話をする時、うつむいてしまう子がやっぱりいます。それが在日の子であったり、または、日本は昔朝鮮に対してこんな悪いことをしてきたんだということを、小学校なんかで勉強してきている子たちですね。どうしても朝鮮人の教師が前に立って話をすると、自分たちが責められているような、実際私はそういう話をどんどん入れていきます。昔こんなことがあってなとか、何で今本名で通える子が少ないんやろなとかいう話をしています。ですから暗い話になるんですが。

 どうしても私1人がいるということでうちの学校は、人権をやる時には全部韓先生お願いしますとなります。2年生の学年ですから、他学年の先生なんかがよく言うのは、「2年生はいいですね、いつも韓先生が人権やってくれるから」という感じなんです。やっぱり自分たちでやるのはしんどいそうです。私は人権やるのは自分のためでありますし、強いては家族や身内のためにもなると思うんです。ですから、手弁当でやる気満々ですから、ほかの仕事さしおいても人権の方やってますので、全然苦労を感じないんですが、なかなか他の日本の先生方にしてみますと、人権の話、特に在日朝鮮人の話をするのはしんどいと思っている方が多いんですね。ですからすごく、やりづらいという話を聞くんです。

 そういう環境で、私が話をする時に私自身は本能的というんですか、たとえば本名の話がでましたけれども、本名は大事ですという話をするんです。ですが、なかなかそれを説明するのは難しいんですね。何で本名大事なんですか、今、本名を隠して自分が在日であることを否定しながら生きている子おるでしょう、その子をひっぱてきておまえ本名にせいと無理矢理変えることがそんなに大事なんですか、ということを言われる先生方がやっぱりいらっしゃいます。そういった先生方に話する時にいつも使わせてもらうのは、県外教ですとか全外教に集まっておられる先生方が考えておられる考えです。それを使わしてもらいます。

 よくうちの同僚は「韓先生はやはり自分が在日やからいろいろ思い入れがあるので、朝鮮人の子どもたちに話しかけているんでしょう。自分たちは思い入れがないから話すことがない」と言われるんです。そうやなくて、実際私がこうやって教壇に立っているのも、私を教師にしてくれた先生方がいますのでということで、その先生方の思いを話しています。たとえば、本名呼び名のる環境という話をしますね、名のるんが先やないんやと、まず本名を呼ぶ環境があってからその次にその子が、実は私は何とかやねんでと語れる環境にせなあかんねという話をしています。そういう話を聞きますと、ああそうなんですかということになります。先ほど話しましたように、今回の人権の発表会なんかも、手前みそなんですが、うまくいったなあという気がしています。

 私は教員に採用されて10年です。93年に採用されました。92年に兵庫県の方では、そこに書いてますように常勤講師、未だに常勤講師という教諭より1段低い待遇になっているんですが、3名採用されています。その後、神戸市は私のあともう1人採用されて、それから7年ほど採用実績なかったんですが、去年1人中国人が採用されて3名になっています。すごく地道な活動やったと思います。中の話を聞きますと、ボス交て言うんですか、トップの方の交渉で、たとえばさっき私が名前を出しました先生方が、直接県教委の方とか市教委の方に行かれまして、いつまで差別続けるんや、朝鮮人の教員を誕生させろというような話をしているみたいです。

 私が採用された93年の以前、92年に県教委が『韓日覚書』の後、当時は海部首相やったと思いますけども、海部さんが韓国の方にいきまして盧泰愚さんと話をされた時に、同胞の教員への道をつくるということで、92年から採用がありました。私はそれまで4年間ずっと、大学の4年生から兵庫県教委の高校英語の教師になろうということで採用試験を受けていました。 そしてずっと落ち続けました。その時私立の学校で講師してまして、同世代の人間が5、6人おったんですが、みんな結婚したりですとか、車買ったりですとか、家を引っ越したりですとか、どんどん新しい生活始めるんですね。でも、同い年でありながら私はまだ講師という状態で先が見えない。92年に兵庫県が採用を決めた後に、おそらく神戸市も兵庫県になびいて採用するだろうと、だからおまえ神戸市にせえと半ば強制的にですね、言われたんで、じゃあ神戸市にしますと言うことで受けて採用されました。

 レジメの5ページの方なんですが、そこに書いてます兵庫県外教とよく行動をともにしているんですが、人権協会、以前のコリアン人権協会という名称を名のってた時もあったんですが、そこと保護者の会が連盟で毎年県、それから各市町村に行政交渉を行ってます。その中でお互いの連帯もすごく強くなっておりますし、外国人の無年金者への給付金ですね、最近は以前に比べては充実してきたのですが、神戸の方でがんばっております。兵庫の方でもがんばっております。そこら辺が兵庫の大きな特徴かなあという思いがしております。震災の後、95年、第16回大会、4ページに書かせてもらってますが、できるかどうかという気持ちでスタートさせていただきました。あの時あの大会をやっていなければ、おそらく今の兵庫はなかったんじゃないかと、あの時みんな自分の家もつぶれてどこかに集まって会議をするにも2時間、3時間かかって行かなあかん。学校も大変やという状況でよくやったなあと思うんですが、あの時の大きなことを乗り越えたので、あれをバネにして今の兵庫になっているんだと、これも兵庫の特徴の1つかなあという気がしております。

寺井  はい、ありがとうございました。こうやって話し続いていきますけれども、参加者の皆さんからのご意見もいただいたり、ご質問もいただいたりしたいと思いますので、お話を聞きながら質問用紙にどんどんお書きいただけたらと思います。続いて奈良の谷さんの方からお願いします。

 在日外国人生徒交流会を、奈良では1985年から十数年以上続けており(前身のソダンのとりくみを入れると20年以上)、その回数は今年11月で123回にもなります。僕自身も毎回子どもをつれて行ったり、あるいはその運営にかかわったりしてきました。交流会につれて行ったら子どもたちも変わるし、自分自身もいろんなことで外国人問題が見えてきて、やってきてよかったなあとずっと思っていますので、そのへんのことを中心に話をしていきたいと思います。

 123回もやっているからすごく奈良では活発なんだろうと思われるかわからないですけれど、現実的に1985年当時の奈良の子どもたちの状況と言えば、奈良はそんなにたくさんの在日コリアンの子どもがいるわけでもありません。各校でバラバラになっておりまして、なかなか子どもたちが1カ所に集まることすらしんどいというか、誘っても交流会にきてくれるような子がたくさんいたわけではありませんでした。回を重ねる中で、現在、毎回20人から30人の子どもたちが交流会に集まっています。

 内容的には4月から順にみていきますと、新入生の歓迎会、就職・進学セミナー、夏休みの宿泊交流会、10月のはじめには在日外国人の子どもたちと日本人の子どもたちとが交流するための交流会、秋にはサンウリムという民族文化祭への参加、2月には近県のなかまや卒業生との交流、そして年度最後には卒業生を送る会の7回で、これらは最近では定例化しています。また参加している子どもたちの主体性、今もそんなに子どもたち自身が毎回自分たちですべてを計画し運営できてるわけではないんですけれども、100回以上という長い回数の中で徐々に子どもたちが生徒交流会での自らの発言を増やしてきたように思います。123回の中でいくつかの節目になったことをお話させていただきたいと思います。

 先ほどなかなかメンバーが集まらなかったという話をしましたが、集まったとしても、日頃そんなに親しくない子どもたちが自分の思いをどんどん出し合えるかというと、決してそういう状況にはなかなかなりませんでした。大きな転機と言いますか、交流会が子どもたちにとってより意味のある交流会になってきたと1番思えたのは、宿泊交流会を始めた時でした。普段は集まってちょっと楽しいことをして、そのあと話し合いをするんですけれど、宿泊をともなうと、子どもたちがじっくりと人間関係をつくった上で誰かがぼそぼそとしゃべり出す、あるいはその中に先輩がきてくれしっかり自分の思いを、たとえば名前のことだとか、自分が本名宣言に至った過程をしゃべってくれたり、あるいは結婚をする時の話、あるいは失恋をした時の話を出してくれたりします。ゆっくりと時間があってうち解けた雰囲気だと、誰かが本音の話をしだすと、いろいろな話が出てきます。宿泊交流会は、それまでの交流会(1日限り数時間、子どもを集めてその場で楽しいこと、あるいは料理をつくってちょっと自己紹介をしていた)とは大きく変わりました。

 こういう宿泊をともなう交流会をしますと、みんなが話ができるようになるかというと、やっぱりそうでもないんです。多くの生徒はじっと聞いているだけで帰って行くわけです。初めて宿泊交流会にきた1人の生徒について話をしたいと思います。当時中3であったK君という生徒です。その子も、奈良県外教として初めて宿泊交流会をした時に、初めて交流会に来た子です。何人かの先輩が来てくれました。そのK君はまったく無口のままではないんですけども、その話し合いの中では自分の思いをしゃべるということはほとんどしなかったんです。宿泊交流会の感想で、K君はいろんな先輩あるいは仲間が、名前のことや人生のことや就職のことやあるいは恋愛のことを一生懸命話すのを聞けてよかったと、書いて帰ったわけです。

 K君はこれを契機に交流会に来るようになり、7年前の奈良大会で舞台にあがって、高校へ進学し本名で生活するようになった時の話をしてくれました。覚えておられる方も結構いると思うんですけれども、彼が紹介されてマイクを握ったんですけれども、1分間ぐらい言葉が出てこなかったんですが、トツトツとした口調で「高校へは本名で行くと決心した」と話しました。K君もそうなんですけれども、なかなか県内で日頃バラバラになっている子が交流会に来たとしても、いろんなことを話し出すかというと、そうではないという現実が続いていたのです。そんな状況の中で、宿泊交流会をすることによって、何人かの子がそれを機にいろんなことを話し出す。そうするとそれ以外の交流会でも、その子たちがまた核になって交流会を切り盛りしだしてくれた。これは奈良の交流会にとって大きな1歩であったと思います。

 運営をしていました世話役の僕らの役割なんですけれども、いろんなことが今までもあったんですけれども、K君の場合で言いますと、交流会の中で彼は本名通学を希望し、それを初めて交流会の中で言ってくれましたので、当然ですけれども保護者にそのことを伝え、進学先の高校へも、交流会の世話人と保護者と本人と3人で、その交流会の中で彼が決意したことを話し、高校生活へのサポートをお願いしに行きました。そういうことがあって、K君だけでにかぎらず、いろんなそういう子がいて、交流会のというのは、そのような子どもたちがいろんな自分の中にあるしんどさや決意を語って、それをまた世話役がサポートし、それが徐々にその子が通っている学校へも影響していくというような意味があるんだなあということを、僕たちに学ばせてくれています。

 そういう宿泊交流会をした以降、交流会は徐々に子どもたちにとって自分らの思いを出しあって、交流会としていろんな問題を整理したり、そういったことができるようになったんではないかなあと思います。それで十数年という長い交流会の歴史を重ねることができて、100回記念集会をすることができました。その時には県内の子どもたちが自分たちで企画をして講師を呼んだり、司会やパネラーになったりというようなエネルギーへと結びついていったんではないかなと思います。

 そういった奈良県の交流会と全外教の交流会との関係なんですけれども、全外教の交流会も長く宿泊をしての交流会を実践されてきました。宿泊交流会の意義を実感できるようになって、奈良では年7回の交流会の1つとして全外教の交流会を呼びかけるようになりました。その頃から奈良の交流会のメンバーは全外教の交流会に多く参加してくれるようになりました。全国へ行きますと、奈良ではないような問題がいろいろと語られます。たとえば近年ですと、すでに会場から出されましたが、熊本の子どもたちが自分の在留資格について安定した状況ではない、自分たちが収容されたしんどさの中で、日本での在留資格を求めているその思いを語りました。そういったことを聞いた奈良の子たちもそういう子たちの思いに引き寄せられ、ともに考えるようになりました。また他にも神奈川の「新渡日」の子どもたちがまとめてきた文章を読んだり、いろんな形で全国の生徒たちとの連帯意識が生まれてきました。

 そんな中で奈良の子どもたちは一昨年、奈良高教組の研究委員会で、自分たちがかかえている問題を提起しました。また、先ほど今澤さんの話にもありましたけども、昨年は日教組教研の子どもフォーラムという大きな場で、近県の子どもたちと1緒に外国人生徒の思いを全国に発信しました。内容はやはり日本の学校の問題、日本人との関係のしんどさ。さらに親子であっても、日本に住むことのしんどさをともにわかっているだけに、自分の父や母にも相談できないといった状況などさまざまでした。そういった経験と言いますか、子どもたちの動きを目の前にして強く思ったことは、交流会でいろんな思いを語りあうことが子どもたちにとっては、自分でこんなふうにしていきたい、強く生きていきたいというような展望や勇気やあるいは仲間の支えあいと言いますか、そういったものを子どもたちはその中でつかんでいっているということでした。交流会の意味っていうのは、来て楽しいことをすることも大事なんですけれども、いろんな子が自分の思いをしっかりと出せる環境をつくることで、生徒たちに未来への展望と勇気を与えることだと、今は思っています。

 時間の方もありませんので、奈良の交流会では宿泊交流会をするようなり、子どもたちが自分の思いを語り出して、徐々に交流会の意味みたいなものが世話をしている教員にとっても、あるいは子どもたちにとっても、交流会というのが自分たちに大事なもんやなあというふうに、だんだん思えるような状況になってきたという話でした。いろいろ問題も残っており、来年度、奈良では4回目の第25回の研究集会をやるということで、来年は奈良でたくさんの生徒を迎えたいと思いますので、そのことについては後ほどまたお話をさせてもらうということで、奈良の交流会のたどってきた意味や、そこで感じてきた僕の思いみたいなものを話させていただきました。

寺井  はい、ありがとうございました。今回大阪大会に、全国から100名を超える中高生が集まってきたあの姿を、本当に今また思い出しながら谷さんのお話を聞かせていただいたわけですが、奈良の特徴的なとりくみということでいけば、高校生交流会から生徒交流会へ、そして100回、100回を超えてというような中身でした。それでは続いて鳥取の三谷さんの方にマイクを渡したいと思います。お願いします。

三谷  先ほども話したように、私たちの会の仲間の立ち上げも大変最近ですし、そういう積み上げというのは実際あるのかなというふうに自問自答してしまうわけです。実は、私が先ほど、3朝というところで出会った3人の姉弟とのことで、いわば自分の仲間が集う機会をつくったんですけれども、実は、私はその3人とも担任をしていません。たまたま同教主任をしていた関係で、真ん中の男の子が自分の名前のことで、こんなことを言って来たということから、その学校でのとりくみが始まりました。どういうことかというと、その担任をしていた先生が、他の子どもたちのあだ名の授業展開をされた中で、その子が「僕にはもう1つこういう名前があるよ」と言いました。本名どうこうということよりも名前があるということを訴えたかったということがきっかけになりました。

 そのお姉ちゃんは1歳上でしたけれども、弟がいろいろなプリントとか、小学校ですから後ろに貼りだした絵だとか、そういうところに名前を乗せるたびに、それを消してまわるということが起こっていったんです。それで初めて僕たちの当時の学校の職員は、在日問題と出会うわけですね。出会った後に先ほど言ったいろんな別の出会いを求めて動きまわらないといけないということが起こっていくわけです。その時にたまたまTBSの筑紫さんのニュース のエンディングに、新井さんが『清河への道』をひっさげて登場してくるんですけれども、鳥取の片田舎から東京まで出かけるの大変だというので、それじゃ来てもらおうじゃないかということになります。それからがうちの研究会のスタートですから、他の研究会とはちょっと異質なのかなとは思ってみたりするのですが。それで鳥取に来てもらって、鳥取の県内にある3地区で歌を歌ってもらいます。米子、倉吉、鳥取とコンサートを開いていってもらって、最後の鳥取でその姉弟3人を連れて行きたかったんですけれども、どうしても上のお姉ちゃんは行きたくないということで、下の2人の兄弟とお父さんとお母さんとで1緒に行って、そのコンサート聞くことになりました。

 その時に、『清河への道』だけが自分の歌じゃないということで、まあ期待するとこは実は48番までを期待してたんですけれども、米子も倉吉も歌ってもらえなかったんですが、この子がいて僕たちがこういう動きをすることになりましたというお話をした時に、48番をそれこそ生のギターの弦を切りながら歌っていただいたことが、非常にまわりの人に影響を与えたというふうに思っているんです。

 その後に、じゃあせっかくコンサートのための実行委員会をつくったのはいいけれど、県内いろいろと考えてみるとそういう集まり1つもないじゃないかということで、実は東中西という形で時間差はありましたが、とにかく原則は自分の学校にいる子に気づかないのはだめだという、まあ本当に原点にもどってスタートしたのがきっかけです。それから5、6年、時間はたっているんですけれども、本当に我々の活動でこれが成果だなと言えるものが何があるのかということを考えると、ちょっと自信がないんですが現在にいたっています。

 もう1つの側面に鳥取県は91年に県が人権条例をつくり、その後県内すべての市町村に人権条例とその具体的な施策というものが広がりました。まあいわば右にならえ的なところもあったと思いますけれども、とりあえずそういうものはできた。ところが、具体的な中身になっていくと、条例が具体性を持って動いてないということがだんだんよく見えてきました。要するに行政が条例とか形をつくっていく、それも他の都道府県に先駆けてこういうものをつくりましたという宣伝はいっぱいあるけれども、具体的に自分の学校の中で、自分の地域の中で何がどう変わっているのかということに気づくことがほとんどない。変わったという感じを受けるものがないという状況が、いわば今日的な状況です。

 10ページから年代別に書きましたけれども、自分で振り返ってみようという気持ちもあって年代別に並べてみたんですけれども、とにかく自分たちの学校にいる子どもを本当にきちっと教員によってつかんでいるのか、ということがやっぱり1番のもとになりました。私の出会いもそうでしたから、私の学校にはそんな子どもは1人もいないと思っていたところからスタートですから。その実情をということを非常に考えて進めました。いろんな調査もしたんですけれども、実際数字があいません。変な話ですけれども、これはダブルの子どもたちを除いた本当に外国籍の子どもたちの実数があわないんです。特に今年の1月は、2000年の国勢調査だったと思いますけれども、その時の数値をみてもですね、外国人登録している該当年齢ですから、これは公立学校に行っているいっていないということではなしに、5歳から14歳までの区分だったと思うんですけれども、ここで200名弱の人数がでているにもかかわらず、学校の基本調査、その年の同じ5月の学校基本調査では百50名ぐらいしか出てこない。要するにそこの差というのは、鳥取県はご存じの通り、先ほども言いましたが、人口が大変少ない県ですので、外国籍の子どもが1年の間に50も60人も増えるということはあり得ないんです。ところが実際には50名強の数があわない実態が出てくる。

 僕はこの全外教のいろんなところでいろんな学習をさせてもらいましたから、行政がきちっと把握した数字が教育委員会に届き、その教育委員会の把握のもとに各学校の人数がきっちと校長なりに把握されて、それが指導にいかされているというふうに、私は疑ってなかったんですけれども、本当にそういうことがたくさんある。これは通称名、日本名の問題もありますけれども、それ以前にいろんな制度的な問題を変えていこうというふうにやっている部分と、実際に実態として教員の意識が変わってないというのが、本当によく見える状況がある。それに対する行政の本当のとりくみというのは、こちらも働きかけていかないといけないんですけれども、なかなかそれがうまくかみあってない。教育方針や指針の問題が先ほど会長の話の中で、本当にこうしてとりくんできたということを聞くにつれ余計に思うんですけれど、実は人権条例の具体的な施策の中にはほぼそれに近いものが網羅されているんです。

 問題は何かというとそれが予算化されているかどうかという部分もあるし、それが意識化されてるかどうかということもあるんですけども、ほとんどやっぱり鳥取の場合は機能していないということを感じます。これは本当にたくさんの人たちの力によってつくられましたけれど、個別の課題になっていくとやっぱり具体性に欠けているということを非常に感じます。今年、寺井事務局長さんに来ていただいて、本当に少ない人数だったけれども、とにかく教育指針をつくっていかないといけないということで学習会をしたんです。実は県としても、これで教育委員会動き出したということは言い難いんですけれども、いろんな状況が起こっています。差別事象も起こってますし、そういうものの中で高校生がかかわるというのは今回の大阪の大会で、鳥取から参加した高校生が発言をしているわけですけれども、そういうものもあったであろうと思いますけれども、やっと何とか方針を来年1年かけてつくろうというところまで、準備段階まで来ました。やはり、今日おいでになっておられる方はどうかわかりませんけれど、本当にまだこういうとりくみがなされてない、またはそういう運動がわからない部分の県や地域からすれば、いかに指針や方針が本当に後押しする、要するに底上げを、底上げという表現がいいのかどうかわからないけれど、底上げをしてくれる本当に力になるなと。やはりそういうとりくみを少しずつやっていくことが本当に大事だなあというふうに思っています。

 1つの行政の姿勢として、今回と前回でやっと行政職員の、これも市町村レベルの行政職員の全外教大会の参加というのをやっと勝ち取ったと言ったら何ですが、やっと口説いてきてもらったという状態です。ですから県の教育委員会なり県の行政なりはなかなかおいでになるということは、何回誘いをかけてもこないということはいったい何なんだと。全同教に関しては実は、全同教批判する訳じゃないですけれども、全同教については県から、県の職員や市町村を含めて500か600人、行政関係者だけでも行っているわけです。ところが全外教、全朝教も含めてずっとこの間、そういう参加者というのはゼロに等しい。
 ただもう1つは、そういう意味で行政は先取りしているところがあります。2000年では1般行政職で在日朝鮮人の3世の女性を採用しました。次の年に高校の日本語の教員として在日コリアンの3世の女性を採用しました。来年の4月には小学校で、これも3世ですけれども男性の小学校教員、ちょうど私と1緒にやっているグループの仲間が採用になることになりました。したがって鳥取県内では、今のところ2人の一般行政職員、義務教育からいうと1人、高等学校からいうと1人、それから幼稚園で1人というような、現業職員は別としてそういう形が今できつつあります。これはある人に言わせれば、ご存じかどうかわかりませんが、片山知事という知事が率先して進めている環日本海交流と言われるような動きの中で起こっているわけですけれども、決してそれは県民の気持ちがまったく別な方向いていて、ただ行政が進めているというわけではなしに、やはり底上げをしているんではないかと思います。私たちも何十回となくそういう意味の教員の仲間の、1緒にやっていこうという声かけをずっとやってきているわけですけれども、なかなかそうはなってないということで、とりくみとはいいがたいところもあるかもしれないんですけれども、そんな状況があるということで、とにかく指針・方針の確立に向けて、今は全力でやっていきたいなと思っています。以上です。

寺井  ありがとうございました。お話を聞いて、三朝で出会った3人の子どもたちの姿が、本当に目の前に出てきたような感じがします。先生のお言葉にあった原点にもどろうというところが、私たちのとりくみの出発だというお話がありました。後の、全外教の今後に向けた中身で、またお話をいただけたらと思います。それでは今澤さんの方でよろしくお願いします。

今澤  はい、山梨ですけれども、先ほども言ったようにな山梨という土地柄なので、とりくみということまで言えるようなものはないんですけれども、ちょっと紹介させていただきたいと思います。山梨の状況、さっきちょっとお話をしましたけれども、韓さんの方で兵庫が不毛の地ということを言われましたけれども、じゃあ兵庫が不毛だったら山梨は火星か土星か。僕はそっからきた火星人か。そんなこと言うと火星人が怒るかなとか、あんまり火星人のことを差別するとここで糾弾されるかなとかいろいろ、せっかくさっきのパネラーの皆さんが大事なことをおっしゃっている時に、つまらんことを考えていたんですけれども。山梨は先ほど言ったように「新渡日」の子が非常に多いです。組合が組織率も90%以上、日教組の組織率も90%以上っていうことで、そっちの面から運動を進めることが非常に多く、うまくいくことが多くて、そのうまくいった例が、日本語指導の加配の増員であったり、高校入試の特別措置です。特に高校入試の特別措置については全国でも先進的な制度になりまた。あとは組合の中でも学習会、組合を動かして学習会を進めたりしています。

 その中でとにかく自分の思いを出していきたい、その思いというのはやはり全朝教で学んだ「新渡日」の子どもたちがかえている課題というのは、在日子どもたちの課題がなおざりにされてきたからだと。そこから端を発して今、「新渡日」の子どもたちが同じような道を歩んで苦しんでいるんだと。そこにやっぱり目を向けていかなければいけない。特に山梨の場合は「新渡日」の子どもに目を向けているんだけれどもその陰で、じゃあ在日コリアンの問題はどうなっているんだということです。ある組合の学習会に在日コリアンの方を呼んでお話をしていただきました。その方がおっしゃいますに、私たち在日コリアンは日本人の教育からも、今話題になっている「新渡日」の子どもたちの話題からも光を当てられない、そういう存在なんだということをおしゃっていました。その言葉が非常に印象的でした。山梨の状況をよく語っているなと非常に思いました。そういう学習会を通じて、とにかく在日コリアンの問題というものに対して山梨の教員に目を向けてもらいたいという思いでいろいろやってきてはいます。

 あと全朝教にかかわってですけれども、2001年の12月に山梨で全朝教セミナーを開かしていただきました。全朝教という名前をつけて行ったのは山梨では始めてなんですけれども、組合にもたくさんかかわっていただいて、動員をしていただきまして、動員をかけても組織率が90%でも、20名ちょっとぐらいしか集まらなかったというような状態なんです。そういう中でやはり先ほどの思い、在日コリアンの問題というものに目を向けて、そして「新渡日」の子どもたちの問題も考えてもらいたいというような思いでやってきました。全朝教は先ほど藤原先生の方からもありましたけれども、在日朝鮮人の問題から「新渡日」の子どもたちの問題も考えていこうというような方向で全外教という名前になっていったという話もありましたけれども、山梨の場合はその逆で、「新渡日」の子どもの問題を考えることによって、逆に在日コリアンの問題を考えていこうと、そして自分の思いとしては全朝教、全外教がとりくんできた子どもたちに寄り添ったそういう実践であるとか、そういうものを山梨に根づかせていきたいという思いで今やっています。特に特徴的なとりくみというほどのもんではないんですけれどもそんなことを山梨でやっています。また時間がありましたら高校入試の特別措置につきまして、とりくんだ経緯とか、今どんな状況になっているのかとかも、お話できればと思います。以上です。

寺井  ありがとうございました。高校入試の問題という話も出てきておりましたけれども、本当に山梨の地で行われている特別枠の中身というのは、全国に先駆けた先進的なとりくみでありますので、ぜひともその話も次のところで聞かせていただければというふうに思います。がですね、もう時計をみますと、この会場5時までしかお借りしていませんで、残り10分間ということになっています。現地の方がフロントと交渉していただいて若干の時間は延ばしていただけるかもしれないんですけれど、本当の予定でいきますと、あと2回ずつご発言をいただく段取りになっておりました。前半の部分で押してしまいまして、ちょっとこういうことになってしまってパネリストの皆さんには本当に申し訳ないんですが、あと1回ずつのご発言ということで、今日のテーマであります今後全外教をどう考えていくのか、地元と照らした、先ほどの会長の講演の中にもあった全外教という組織そのものが、地元のとりくみを大事にしながら、それが横でつながってきていると、そういったことでいきますと、それぞれの地元の課題にどんな課題があって、その課題を克服するためにどのようなとりくみが今必要とされているのか。あるいは地元のみならず全国の仲間とどんな形でつながっていくのかというのが今大事なのかという部分も、ちょっと時間のない中なんですけれどもお触れいただきながら、あと1回ずつの発言をお願いできたらというふうに思っています。

 全外教が1997年に全朝教(全外教)という組織名称と研究集会名称を提起をして、5年間組織内外から意見を聞かせていただきました。そしてようやく昨年総会において全国在日外国人教育研究協議会という 組織名称変更をしまして研究集会名も全外教という形で大阪大会をさせていただきました。そういう5年間の組織内外での論議の話もちょっとご紹介したかったと思うんですけれども、そういったことも含めて、各地での課題や今後課題克服に向けたとりくみにちょっとお話をお聞きしながら、そのことと重ねあわせて今後の全外教というあたりを、皆さんとともに考えていけたらというふうに思っています。時間のない中で大変申し訳ないんですが、韓さんあと1回ということでよろしくお願いしたいと思います。

 はい。今後の全外教に期待するものということで、この前もちらっと話があったんですが、石原慎太郎の差別発言集を出してもらいたいなあと。あれがあれば学校ですごく教材として使えるなあという気がしますので、これはすぐできると思いますので、つくっていただきたいなと思っています。やはり私、在日の教員として1番思うのは、在日朝鮮人問題というのは日本人の問題だと思いますから。ですからやはり日本の先生方にかかわってもらわないといけないと思います。ただ、いま1歩踏み出せないという方がやっぱりいらっしゃいます。

 先ほど言いましたように、うちの今回の中学校での研究発表会、他の学校の先生方がたくさん来てもらって、すごくいい評判があったんです。その中で、さすが西代中学校は韓先生がおるだけに…という話をする人がおったんですけれども、そう言ってもらえれば少しはそれもあるかなという気がします。職員研修もよくやっていますし、地域の学校の方にも出向いていって、そこでも職員研修やってますし、いろんな話、まだ残っている制度的な差別の話もしています。ですからそう言っていただけるのうれしいんですけれども、やはり日本の先生方にもう少し勉強をしていただきたいなという気がします。

 それで何かお役に立つことが、何か全外教ができないかなあと。教員のことなんですが、例えば兵庫では私立の高校ですがベトナム籍の教員も誕生しています。これからそんないわゆるニューカマーと言われる方々も、先生になったり、公務員になっていくと思うんです。それをみますと、もう少しそういった道を全外教が何とか模索できないかなというような期待があります。そうですね、なかなか他府県では何で外国人を教員にせなあかんねやとか、まだそのレベルの程度の話しかできていない教育委員会もあると聞いています。

 私自身の考えなんですけれども、在日の教員を便利に使ってもらいたいんです。さっき話しましたように「韓さんがおるから、あんたに人権の教育任しとくで」と言われたら、それもそれでいいんです。やりますから。おそらく多くの在日の教員はそういう考えだと思います。やらせてもらえるんだったらやりたいです。その中から何か日本の先生方が学び取ってもらえることがもしあれば…。まあ全外教に来ますと私よりも朝鮮のこととか、朝鮮人にかかわる人権のことに詳しい先生方いらっしゃいますので、あまり大きなことは言えないんですけれども、まあ飛び道具ですね。私は自分のことを飛び道具やと思ってますんで、困った時に使ってもらえればすごく役に立つと思いますので、そういった道を全外教の方で考えていただけないかなと思っています。

寺井  ありがとうございました。谷さん短めで申し訳ないんですがよろしくお願いします。

 今日のセミナーの表紙をご覧ください。これが昨年度大阪大会の全国交流会の子どもたちのほとんどがここに写っています。100人を超えました。たぶん全外教の生徒交流会としては100人を超えたの初めてです。封筒の中に全国在日外国人生徒交流会だよりが入っています。この中の4ページをご覧ください。1つ1つ読めないんですけれども、先ほども言いましたけども、全国から子どもたちが集まってそれぞれの思いを出しあって、それに対して他府県の子がどう共鳴してくれ、どんなふうに勇気づけられるのかという、それこそがやっぱり交流会の価値であり意味であると思います。またその中で出てきたしんどさを教員たちが、僕たちが他府県の先生と連絡をとりあい、その子どもたちをサポートしていくこと、これも交流会の意味だと思うんです。

 ところが、「ところが」といったら言葉遣いが間違っていると思いますが、百人を超えて参加生徒が多くなると、運営の仕方というのがすごく難しくなっていると思います。たくさんくればくるほど自分たちの思いを出せないままかえって行く子もいるだろうし、あるいはいろんな問題も、昨年も実際いろんなことがあったと思うんですけども、いろんな課題が出てきています。やっぱりそういった中で全外教の生徒交流会っていうのは、その場で集まってその場でああ楽しかったな、いろんな思いをしゃべれたなで終わってしまわないようなつくり方をせねばならないなと考えて、やっていきたいなと思っています。

 近年、子どもたちが前もって集まりを持って、交流会に向けて準備しようというようなとりくみも出てきているわけですが、そういったとりくみをより強めて、来年の奈良の生徒交流会に向けて全国各地からアイディアを出しあったり、実際子どもたちが前もって集まって生徒交流会の準備会をできればどんなにいいかなと思っています。そういうことで来年、奈良では多くの、100人200人という子どもが集まっても、それぞれの子どもが来てよかったなと思える生徒交流会にしていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。そのために各地の子どもたちというか先生たちとも事前に何回かともに交流会のあり方について話しあえるようになれればなと考えています。

寺井  ありがとうございました。じゃ、三谷さんの方からお願いします。

三谷  先ほど話したように鳥取の状況というのは、そういう中で本当にコツコツやっていくしかないなという状況なんですけれども、1つ私自身の全外教に対する願いから言えば、本当に初めていった全国集会もそうでしたし、そのあとのセミナーもそうでしたし、それから私の立場から言えば運営委員会でいろんな状況を教えてもらい、また鳥取の状況を伝えていくということがどれだけ大事なのかと言うことは、本当に思いました。その中から、いわば今、足らないものは何なのか、やらなければいけないものは何なのかってことが非常によく見えてきたからこそ、逆に言うとさっき言ったような指針なりが、何か指針というのは文章があればそれだけのもんかなというような思いをしてましたけれども、実際具体的にやればやるほど、何が本当に必要で、何がその子どもたちを変えていくのか、教員を変えていくのか、またはたくさんの在日の人たちやそして市民を変えていくのかということが、やっぱり1つのとりかかりとして意味があるなあということが本当に今痛感しています。ですからこれが今5年、6年たちましたけれども、もっと早くからそれをきちっと訴えていく自分たちの力量をつくらなけりゃいけなかったなと思うんです。そういう意味から言うと、何年たってもできないものを地団駄踏んでいるよりも、今1歩踏み出せることに自分たちの誇りを感じたいというふうに思っています。

 もう1つはそういう中で見えてきたのは、実は今日の資料の中にもあるんですけれども、25ページ、26ページあたりを見ていただくと、鳥取、さっき4千いくらで、今コリアンを超えて中国籍の方が増えてきました。でも総体からいうと60万のうちの4500です。ところが人口比率でどれだけの割合ということよりも、それだけの人がいるにもかかわらず、全外教に集まっている人たちというのは、本当にまだ少ないような気がするんです。私の場合は隣に岡山があります。先ほども会長の方からも岡山の動きということも含めて若干ふれられましたけれども、実は鳥取には民族学校ありません。島根県の松江市にありました。10名から15名くらいの子どもたちが通っていました。それが統廃合によって今、岡山県の倉敷にあります。鳥取県から4名の小学校1年生から中学校の2年生までの、初中ですので行っています。そういうことに対することさえも、要するに県内の中では知られていないわけです。

 この間の拉致問題、特に境港市という名前を聞かれた方もあるんじゃないかと思いますが、唯1北朝鮮に姉妹都市を持っている市なんですけども、そっから逆に今度は中古の自転車をたくさん積み込んで行くというようなことで、この間ニュースにもなりました。そういう中で朝鮮学校に行っている子どもたちが非常にきれいさっぱり忘れ去られているということもありました。岡山県の行政が岡山の朝鮮学校に対する補助金というのも、全国でまったく比較にならないぐらい低かったということもありましたんで、鳥取県下の中で教職員組合も含めて岡山県に対する、まあ鳥取の中のことができてないのに外に向けてということもあるかもしれませんけども、連帯の意味も込めてそういう活動もしました。全外教の運動の1つは、やはり横に広がる力を持ってるということは、我々鳥取にとっては非常に強い強みでした。要するに県の行政でさえ知らないことを私たちがきちっと説明できる力量がついてきたというのは、この全外教がなかったら持ち得なかった力だと思っています。

 ですから余計にですね、鳥取よりも在日外国人が本当に人数的にいえば少ないのは、たった2つの県しかありません。高知と宮崎だったと思います。あとは鳥取県よりも多くの外国籍の方が住んでおられる。そこではたぶん僕と同じ出会いをした人がたくさんいるだろうと思うんです。日教組の国際連帯の分科会なんかでもたくさんそういう出会い方をします。そこと、点と点が結びあっていくことでやはり、やっと鳥取は線になりましたけれども、面になれるところまで行き着きたいなと思っているわけで、ぜひともこういうセミナーを本当に以前からもお願いをしているわけですけれども、たとえば四国でやるとか、北陸地方とか、私たちの隣県でないところの部分に伸ばしていけるような力をつけないといけないと思いますし、ぜひそういう活動を、あとから来た人間と言いますか、学んできた人間が言うのがちょっとおこがましいですが、ぜひともそういう活動を軸にもしていただきたい、たぶんそれを待ってはいないかもしれませんけども、する必要は絶対あると私は思っています。ぜひともそういう力があってほしいですし、それからそういう情報をきちっと伝えていただける力が全外教にはありますので、それを本当にいかしていくことが、これからのとりくみの要望していきたい中身だと私は思っています。以上です。

寺井  ありがとうございました。今澤さん、よろしくお願いします。

今澤  はい。山梨からですけれども、山梨、本当に課題が多いです。先ほど言ったような課題であったり、あと「新渡日」の子どもに限って言えば、山梨に限らず全国的な課題があります。その資料にも書きましたけれども、学習言語ができないということから始まって、子どもたちは長期滞在化、定住化の傾向にあるんですけれども、初期指導を卒業した子どもたちが学習言語ができない。そうすると学校がおもしろくない、学校をやめてしまうということで、進路の問題以前の問題でドロップアウト。それから未就学、不登校という、あとは児童労働の問題も深刻化しています。日本語指導の面では、学習言語ということに目をつけて文科省でも動くようになってきていますし、目を向けられて来つつあります。でもまだまだなところがあったりします。あとはドロップアウトや児童労働がどんどん生まれているというような現状も、山梨の中ではありますので、そこへのとりくみというのも課題になっています。

 それにかかわってそういう不就学やドロップアウトの子どもたちに対して、今全国的に公の、行政の側から非常に積極的な支援をしているところが増えている。特に東の地域で増えているというのが非常に気がつくところです。資料にも書いたんですけれども、太田市では市教委で進路ガイダンスを行っている。あと太田市ではブラジル人の子どもたちが多いのでさまざまなとりくみをしています。特区としてブラジル人学校を太田市の中につくるであるとか、ポルトガル語で授業をする小学校の特別学級をするとか、「サタデーチャレンジスクール」という、土曜日にポルトガル語で授業を行うというとりくみをしていたりもします。あと、磐田市の市教委は外国人学習サポート教室でポルトガル語を指導したりとか、浜松市の「カナリーニョ」であったり、言葉の教室であったり、長野県の「サンタプロジェクト」、これは県と経済団体とNPOが一緒になってやっていると。そこでのレジメを見ますと4人に1人が長野県でも外国人の子どもたちが不就学になっているんだと、それに就学援助金を出したり、母語教室を開いたりというようなとりくみも全国では生まれています。そのような土地とぜひ全外教の方で接点をもっていくのがいいかなと思っています。そういうところのとりくみに学んだり、そこに全外教が今までとりくんできた豊かな教育実践を逆に広めていくというようなことが、今から必要になってくるかなと思っています。

 それともう1つ期待するものとしては、我々のような東の土地と本当に接点を持っていただきたいなというふうに思っています。いろんなシンポジウムが「新渡日」の子どもたちの教育にかかわって開かれるようになってきています。そういうところに全外教として積極的に乗り込んでいって、そこでの情報を集めたり、逆に全外教のとりくみを紹介したりというようなことを通しながら、全国の、東の地域とつながっていっていただければうれしいなと思います。そして山梨のような土地にも在日外国人教育、在日朝鮮人教育の豊かな実践が根づいていけるようになればいいなというふうにも思っています。

 一番最初に会長のことを変なおっさん呼ばわりしてしまって本当に申し訳なく思っています。でも、その時は変なおっさんと思いましたけれども、あとで桝井先生から宗教の勧誘のようにいただいたいろんな書物を読ませていただきまして、ああこんなにすごい組織の会長さんから拍手をいただいたんだと、決して変なおっさんじゃなかったんだなということを思いました。藤原先生の著書も読ませていただいたりして、こんな人から拍手をもらった、そういうところに自分は行けて非常にうれしいというようなことを本当に思いました。拍手をいただいた会長、それから誘っていただいた桝井さんに本当に今では感謝しています。

寺井  ありがとうございました。もう本当に時間が来てしまいました。冒頭申し上げましたように、このセミナー、これからの全外教を考えるシンポジウムと講演会ということで、第15回、滋賀県でも計画をしております。5月8日、第15回ということで、第2弾を企画します。そちらの方で今回の中身、それから滋賀の中身とあわせて1つの方向性、まとめをさせていただきたいということで、この場では私の方からまとめさせていただくことはないことをお詫びを申し上げます。もう1つは皆さん方、今日せっかく来ていただいたのにご発言いただく時間をつくれなかったこともお詫びを申し上げたいというふうに思います。4名のパネラーの皆さんに、もう1度拍手でお礼を申し上げたい、ありがとうございました。

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