第24回全外教大阪大会全体会シンポジウムより 「こうすればよくなる、日本の学校、日本の社会」 |
鍛治致
皆さん初めまして。司会を務めます鍛治致と申します。私は今、京都大学の教育学研究科を休学しておりまして、高校や大学など四校ほどで非常勤講師をかけ持ちしております。中国語、社会学、教育学などを教えています。本日はどうぞよろしくお願いします。(拍手)ありがとうございます。
早速ですが、今日お招きした4人のパネラーに、10分から15分くらいずつお話をしてもらって、その あと、4人のパネラーの皆さんにお互いに質問をぶつけあっていただこうかと思います。ですから司会はなるべく余計なことは喋らないというようにしますので、4人で話題がなくなってしーんとしてきたな、というふうになったら、僕の方で質問などをします。そんな感じで進めていきますので、どうかよろしくお願いします。それではまず最初に、劉立民さんにお話をしてもらおうと思います。
劉立民
私は劉立民と言います。おばあちゃんが残留婦人で、98年に家族と一緒に日本に来ました。今は、龍谷大学国際文化学部・国際文化学科2年に在籍しています。外国人はみんな日本に来て日本語に苦労したと言いますが、それは当たり前で日本から外国に行く人も同じ苦労をするでしょう。たまに、先生や友だちに日本語がうまい、どうやって勉強したのと聞かれるのですが、どういうふうに答えたらよいかよくわかりません。
私は大学に入ってから、自分は他の子より劣っていると思いました。日本に来て中学校3年生に入り、高校までは普通に勉強しました。ただみんなと違うのは、日本語ができないだけということでした。大学に入るとまず、「日本と国際社会」という授業があり、それは日本史や中国史に関係のある授業ですが、私はいつも一番後ろの席に座って聞いていました。なぜかというと、私は日本史の知識も中国史の知識も中途半端だからです。先生に聞かれてもわからない問題がほとんどです。
この授業は留学生も受けています。だから中国史のことは留学生に聞くことも多いのです。ある日私も先生に質問されました。顔を見ても留学生かどうかわからないから、まず「あなたは留学生ですか?」と聞かれ、一瞬とまどいました。どうやって答えるかを考えているうちに、「はい次の人」と言われました。ちょっと寂しかったです。留学生じゃないのに中国名、外国語は日本語をとっている、日本人じゃないのに授業料は日本人と同じ金額を払っている。自分でもこれから自分はどうなるのだろうと考えたことがよくある。日本の友だちにも、「留学生か」とよく聞かれるけれど、私は留学生でなく日本人でもなく、冗談で「宇宙人です」と答えた時もあります。
今は普通に勉強していますが、在留資格の問題で国外退去させられそうになったことがあります。それは、母が亡くなった母の姉の名前で日本に来たからです。私たちの戸籍は勝手に他人に使われたからです。その当時はそれが不法であるという意識はまったくありませんでした。日本に来てちょうど1年になって、次のビザを申請したのだけれど、なかなか許可が下りず、待っていると、朝早くまだ寝ている時間に、入管の人が勝手に家に入ってきて、私たちを西日本入国管理局に連れて行った。私はその当時高校1年生でした。急に学校に行けなくなって、とても辛くて泣きそうだった。学校に電話をすることも許してくれなかった。母はちょうどその時病院に入院していました。私は毎日朝病院に寄ってから学校に行きました。急に病院に行けなくなって、とても母のことを心配していました。
入管に車で連れて行かれて、いろいろ調査が終わってやっと学校へ電話をすることができました。先生はとても私のことを心配してくれました。「どうしたん。なんで急に学校来なくなったん」と先生に聞かれ、入管の人からは「中国に帰ってもらう」と言われていたので、「もう学校に行けなくなった」と先生に泣きながら言いました。
調査が終わり、その日に家に帰ることができました。夕方の4時くらいです。「自分で帰って下さい」と入管の人に言われました。「どうやって帰るのですか」とたずねると、「電車で帰って下さい」と言われ、まったく来たことのない所から、人に聞きながら約1時間かかって駅まで行きました。財布の中にあったわずかなお金で家の近くの駅まで帰りました。泣きそうだった。歩いて母のいる病院まで行って、やっと母と会えて安心しました。
その後私は毎日落ち込んでいました。私は大好きな学校へも行けなかった。毎日学校の授業はどうなっているかなと思っていました。でも両親には、「行けるところまで学校に行ったら」と言われ、その通りにしました。先生に学校に来なかった理由を聞かれ、最初は言わなかったけれど、結局先生に話しました。日中友好協会を始め、先生達に温かい応援をしてもらってやっと在留特別許可が一昨年に下りました。高校の先生のお陰で、弁護士と友好協会を通じて、何とか現在の状況に落ち着くことができました。とても感謝しています。
最後に言いたいのは、字が書けないので自分で手続きができないで騙されたということです。なぜ僕のおばあちゃんのような残留婦人が生まれたかというと、日本が戦争をしたからである。そのうえ戦後処理をちゃんとしていなかったからである。私のおばあちゃんは自分の祖国日本へ帰りたかったのです。でも結局は帰ることができなくて中国で亡くなってしまいました。私が思うには決して昔にあったことを忘れてはいけないということです。日本には二度と戦争をしてほしくない。そして、世界平和が僕の強い願いです。以上です。どうもありがとうございました。(拍手)
鍛治致
ありがとうございました。次は同じく中国から来ました武洪霞さんにマイクを渡したいと思います。
武洪霞
みなさんこんにちは。私は武洪霞と言います。実は私は武洪霞以外に名前があるんですよ。日本名はスミカワカスミと言います。アイドルみたいな名前だと言われるのですが、これは実は自分で付けた名前なのです。カナダに留学に行った時に、ティファニー・ウという新しい名前を付けてもらいました。この名前はカナダの友だちに呼んでもらっています。なぜ私がいろんな名前を使っているかというと、いろんな名前で呼んでもらうことによって気分転換をはかれるからです。親には少し申し訳ない気がしますが。
しかし、どんな名前を使っても自分が中国人であることは変わらないと思います。それは自分がそう思うことだけではなくて、実際日本の社会では名前だけで判断され、就職活動の時は中国人だということで電話で断られたことがあります。剃刀で有名な会社に問い合わせの電話をしまして、私の名前を言ったとき、「あなたは外国人ですか」と聞かれたので、「はい、中国から来ました」と答えると、「外国人は上部から採用しないように指示されているので、面接をしても最後には落とすことになっているので、うちの会社はあきらめて他の会社を探した方がいいですよ」と言われました。親切なアドバイスではあったのですが、自分の気持ちを静めることができませんでした。
次の日に自分の高校に行って、先生にこの件を相談しました。先生はこれは就職差別であると、会社に抗議してくれました。会社からはすぐに謝罪の手紙が届きました。その回答があまりにも早くて私が本当に伝えたかった「平等な就職チャンスが欲しい」ということを考えてくれたのかどうか疑問に感じました。こういうふうに謝ってもらうことは、意味がないことなのではないかとも思われるかもしれませんが、自分自身がこういう経験をすることによって、抗議することによって、日本の企業に外国人に対する就職差別の問題を考えてもらえるきっかけになったらいいなあと考えています。
就職活動では悩みや不安が一杯で、自分の気持ちの中でそれと闘っていました。自分を励まして、 就職のできる会社を探していました。名古屋にある愛知大学に通っていたのですが、就職は大阪でしたかったのです。就職するための情報はなくて、関西大学、関西外国語大学、近畿大学などの就職課に行って、情報をもらいました。それでもなかなか見つからなくて、最後には学生就職センターや職業安定所に行きました。「私は日本で働きたい」ということを伝えました。疲れ切った毎日を送っていたある日、日中貿易センターの責任者から電話があり、ある会社を紹介してもらいました。そして、その会社に面接を受けに行き、内定をもらいました。名古屋の会社なので、一人暮らしを続けなければならず、いろいろ悩みましたが、仕事の経験を積みたかったので、そこに就職することに決めました。中国との貿易ということで私の第一希望でもあったからです。
去年の9月からの仕事で、卒論を書きながらでした。それが会社の条件でした。教えられながら精一杯の毎日でした。「本当に日本語がわかっているの」と聞かれることもあって、むかついたり落ちこん込んだりしました。そんな中、私に能力がないということで、内定取り消しになりました。大きなショックでした。大学の就職課の人も動いてくれて、一緒に会社に行ってもらったのですが、社長さんには謝ってもらうことができませんでした。今は大阪にもどってきて繊維関係の会社で働いています。
今までの挫折で自信を失ったのですが、判断力や物事の処理能力を少しずつ身につけることによって、日本で働いていく自信が少しずつ出てきました。まず、社会に出てそこで働けば、自信も出てくると思います。私たち在日外国人は、就職の入口で拒否されることがあってもそこであきらめずに、頑張りますので、多くの先生達に支えていただきたいと思います。長くなりましてすいません。(拍手)
鍛治致
続きまして、鄭聖愛さんお願いします。
鄭聖愛
私は、鄭聖愛と言います。在日韓国・朝鮮人の4世です。私は、大阪市の生野区−14人に1人が在日韓国・朝鮮人という在日韓国・朝鮮人の多住地域なんですが−に生まれ育ちました。小学校は地元の公立小学校なんですけれど、私が在籍していた当時は7割が在日の生徒でした。4年生から民族学級に行って、いろんなことを勉強しました。中学校は住吉区にある建国中学校という韓国系の中学校に行き、高校は府立高校にもどりましたが、そこでも在日の在籍率がかなり高くて、当時1学年360人中30人近くいて、本名使用者も多かったです。
そういうプロフィールを見ると、「本名で力強く生きるポジティブな在日朝鮮人」というイメージを抱かれるかもしれませんが、皆さんの期待に添えないかもしれないということをはじめにお断りしておきたいと思います。確かに、両親は私に本名だけを与え、両親の教育方針で、私は幼い頃から民族教育を受けることができたし、まわりに在日朝鮮人がたいへん多くいたので、同じ世代の在日朝鮮人の中では、格別恵まれた環境にいたことは事実です。そのおかげで、自分の名前やルーツに対してネガティブな感情は一切持っていませんから、その意味ではポジティブには違いありません。しかし、そういったこととは別に、〈今〉、この日本社会でどう生きていくかを考える際に、府立高校から大学に進学して―法学部なんですが―ネガティブにならざるを得ない現実に直面しつつあります。
在日朝鮮人として、私が重要だと思うのは、やはり名前の問題です。名前は私のルーツを目に見えるかたちで示す唯一のものだからです。私の自分の名前に対する思いというのは、ずいぶん強いです。自分が日本社会で生きていることをはっきりと自覚したのは高校へ入学してからです。出席簿にふりがなをふれば済むことなのに、何度も名前の読み方をたずねる教師もいたし、「在日って何?」と言う生徒も少なくなくて、ちょっとショックでした。
大学生になった今でも、自己紹介の時と出欠を取られる時は、無意識のうちに身構えています。私が名前を言うと、それまでざわついていた空気が一瞬のうちに静かになるというか、固まるのです。「鄭」という字を読めないのは仕方がありませんが、「チョン・ソンエです」と言った時の相手の反応は、ほぼ三種類にわけられます。一つ目は「ああ、留学生ね、日本語はわかりますか?」ちょっとなまりながら言います。二つ目は、「日本語上手ですね、いつ日本に来たんですか?」、三つ目は、「変わった名前ですね」です。
最後の反応は、これが意外に多いのですが、「変わった名前の日本人」という認識ですから論外としても、前の二つの反応に対して、私は「留学生ではありません」と言うだけで、そこから「在日朝鮮人です。在日朝鮮人の4世です」と付け加えることはだんだんしなくなりました。大半の日本人にとって、日本人とは―私はこれを日本人が考える日本人の三要件と思ってるんですが―「日本語を話す」、「日本国籍を持つ」、「大和民族の人間である」、そして、日本は未だにそういう人間だけが暮らしている国である、ということです。そして、そういう現実に気付いてしまうと、そのような救いようのない無知に対して、我慢強く、「私は在日4世で、遡ると1910年に…」なんてもう説明する気にはならないわけです。
もうひとつ、印象に残っているエピソードをお話したいと思います。去年1年間予備校に通っていたのですが、拉致問題が大きくとりあげられ、朝鮮学校の生徒に対するいやがらせもひどくなっていた時期に、高校時代の在日朝鮮人の友人とした会話がとても印象に残っています。予備校では、北朝鮮をネタにしてくだらない、悪意に満ちた冗談を言うような学生も少なからずいて、そういう人たちのすぐそばで、私たちは二人とも民族学校出身だったので、自分たちの後輩がどれだけつらい思いをしているかを想像するといたたまれない、というような話をしていました。
すると友人は笑いながら、「もう日本には住めなくなりそうやね」と言いました。そこから、移住するならどの国がいいかという話題で盛りあがったわけです。私も友人の「日本では暮らせない」という言葉に、笑って同意したのですが、あの時の会話は単なる冗談ではなく、本音だったと思うのです。私は本名を名のって生きてきましたが、運がよいと言ってよいのか、直接目に見える形での、いわゆる差別には今のところ遭っていません。しかし問題はより深刻なものになってきていると思います。つまり、今の日本は、はっきりと他人にも理解されるような理由がないのに、「この国では暮らせない、暮らしたくない」と、マイノリティに肌で感じとらせてしまうような、排他的な社会になってしまっているのではないかということです。
同じような思いは私たち在日朝鮮人だけではなくて、新渡日の人たちも抱いていると思います。最近聞いた話ですが、渡日して日本の学校に通い始めた子ども達の中に日本名を欲しがる生徒がいる、ということです。ああ、もう在日と同じ問題を抱えるようになったんだ、と大きなショックを受けました。さっき日本人が考える日本人の三要件というお話をしましたが、その三要件にあてはまらないということだけを理由に差別されるのは明らかに不当であって、差別される側には何ら非がないとはっきりと判断して反対できない、差別される側にもまったく問題がないかというと私はそうじゃないと思うんですね。でも、これは私は日本で民族教育を受けてきたから偉そうに言えることで、問題は、マイノリティの子どもに日本名が欲しいと、半ば脅迫的に強制的に感じさせてしまう学校の中の冷たい対応なんだと、私は思います。
私が名前を言った時に、反応が三つあると言いましたが、実はもう一つあります。これが一番重要なんですが、それは無反応・無関心です。これは私に「ナニジンですか?」という質問が私の気を害するから、気を遣ってその話題に触れないというのとは違う態度です。もう在日3世とか在日4世とかは日本で生まれて日本で育ったのだから、日本人と全然変わらないね、と何の屈託もなく言うわけです。そう言うふうに言われると、本当にショックで何も言い返せなくなります。
同じようなことで、何年か前に公開された「GO」という映画で―在日の高校生が主人公で、ご覧になった先生も多いと思いますが―「ナニジンだってかまわないじゃないか」という台詞があったんですが、とても違和感を覚えます。小説も読み、映画も見たのですが、あの作品全体を通して私が感じたのは「日本人と変わらないね」と言われた時のショックと似ているんです。金子みすゞという詩人が「みんな違ってみんないい」と言ったと思うのですが、そういうふうには違いを、日本人と私たちの違いをそう簡単には受け入れてくれない、受け入れてもらえない、という気がします。
自分の両親を含めて、私は日本社会を変えようと活動してきた人たちをたくさん知っていますし、私もそうしたい気持ちはないわけではありませんが、一方で、日本はこれからも当分の間は変わらないという確信のようなものを、特に最近強く抱くようになっています。諦観、という言葉が今の私の気持ちに一番近いものです。自分はこれからも本名を名のるしかないし、不当な差別が自分の身に起これば、というか近い将来起こるだろうし、その時は当然闘うだろうけれど、それ以上の行動を起こす気はあまりなれないのが本音です。
最後になりましたが、先生方に主張したいことがふたつあります。ひとつは、先ほどは新規渡日者と私たち在日との共通点について話したのですが、私のような在日朝鮮人3世、4世の生徒と、新規渡日の生徒とは、根本的にその歴史背景が違うということを忘れないでいただきたいのです。先生方にとって、在日朝鮮人の生徒は言葉の問題があるわけでもないし、本名を名のっていなければその存在、在日であるということすら気付くことがない、すでに解決してしまった問題になってしまっているかもしれません。しかし、新規渡日者の子どもとか孫とかこれからを考えた場合に、今私たち在日朝鮮人が抱えている問題に直面する可能性が大きいわけですし、「在日朝鮮人」の存在そのものが実は問題なのであって、問題は解決したというよりむしろ風化しているだけだと私は思います。学校や社会の中の、周囲の「無知」に晒されて、まわりの目からは見えないところで疎外感を感じている生徒がいることを忘れないでほしいのです。
もうひとつは、きちんと説明しないと誤解を受けそうですが、「在日朝鮮人」のレッテルを安易に貼りすぎないでほしい、ということです。つまり、「在日朝鮮人」という言葉が、境界線になってはならないと思うのです。日本人と結婚する人や日本国籍を取得する人が増え、在日朝鮮人は非常に多様化しており、単純なラベル貼りは、一方で「純粋な」日本人という概念を許してしまいかねないからです。近頃よく言われることの繰り返しになってしまいますが、私が望むのは在日が日本人と変わらなくなること「同化」ではなく、異質なものが同じ場所で共に生きる「共生」です。「共生」というと綺麗事に聞こえるので、異質な存在としての自分が、「純粋な」日本を「汚し」て、韓国ではピビンバという料理がありますけれど、混ぜるのが好きなんですね、それと同じように、ハイブリッドな雑種の日本を創るという憎まれ役になれればと思います。(拍手)
鍛治致
はい、どうもありがとうございました。それでは続きまして、鈴木ビビアンさん、お願いします。
鈴木ビビアン
初めまして。鈴木ビビアンと申します。8年前日本に来たのですが、今定時制に通っていて、みなさんみたいに大きな問題は抱えていないんですが、後ろの垂れ幕にあるように「日本の学校と日本の社会をどう変えたらいいか」ということについて、話してみようと思っています。全部アドリブなので、気にしないでください。私は8月18日に私立の先生が集まった所に、参加させてもらいました。参加者は私と障害を持った男の子とあと大人が二人でした。私は恵まれていて、いじめを受けた経験はありませんが、多少の差別はやはり受けています。私の彼氏の家族はつきあいを反対していて、今それと闘っています。
私は学校教育に対しても、疑問を持っています。私はブラジル生まれなので、どうしても日本とブラジルを比べてしまうのですが、全部日本が悪いというわけではありませんが、こうしたらよくなるのでは、と思うことがあるので、それを言いたいなと思います。日本では少年犯罪が増えていると思うのですが、「外国人のせいだ」というような言葉もよく耳にしますが、これは私たちのせいではなく、日本の教育が悪いからなのです。小学校からみんな6時間、ほとんど学校で生活をしているのですから、生徒のことを思うのは先生、子どもを躾けるのも先生になってしまっています。ブラジルでは学校は朝と昼とにわかれていて、四時間という短い時間で勉強をしています。長い時間、学校にいると先生の態度は生徒に大きな影響を与えると思います。
また、日本の小学校も中学校も厳しく、子どもを自由にはさせません。ブラジルでは制服は少ないし、あっても単純な制服だし、ピアスとか時計とか指輪とかもしていて、小学校では化粧はしないけれど、中学校では化粧をしている子は多いので、そういうところで育った子は日本ではやっていけません。ピアスをしたり髪を染めたりしたぐらいで不良だと決めつけられてしまいます。先生達はなぜそう決めつけるのか、先生に聞いてみたらその答えは「日本ではみんな輪になっているので、その輪から離れようとする者はいけない」ということです。先生自身も輪から外れれば、私立の学校では首になってしまう。それは、先生の態度も同じだし、いじめの問題でも同じ状況です。グループから、離れようとする者はいじめられる。でも、輪から出てみなければ社会や学校も変わらないと思います。輪から出るのを怖がるのはどうしてだろうと思います。
私はいじめられたことはないけれど、不登校になった時期があります。ずっと保健室に通っていました。その時に、いじめられているいろんな子の話を聞いて思ったことがあります。いじめる方も先生に注目して欲しいという気持ちがあるようですが、先生の中には知らない振りをする人もいる。でも、先生達が何も行動をしなければ、何も変わらないと思います。輪から出ようとする先生は少ないと思いますが、私の先生は岸野先生と言って、変わった先生で、私は先生と思ってないんです。先生らしくないところが好きなんです。たまに腹の立つこともあるんですが、こういう先生が学校に多くいたら生徒も楽しいでしょう。
一方、何のために教師になってるのかなと思う先生も多いです。公務員で給料もよく、めったに首になることもないから教師を選ぶ人も多いのでしょうけれど、教師になった時点で生徒のことを思っていかないと、少年犯罪やいじめがこれからも増えていくでしょう。生徒に将来何になりたいと聞いて、「先生です」と答える子がいたら、先生という職業を選ぶ上での大切さを教えないと、間違った先生になってしまう可能性も出てくるので、生徒のことを思って何でも話をしていかないと、これからも学校や日本社会も変わらないと思います。以上です。(拍手)
鍛治
はい、ありがとうございました。あと10分しかないですので、まず最初に話をしてくれた劉立民から、他のパネラー誰でもいいですから、聞きたいことがあったら聞いてください。
劉立民
そうですね、さっき就職差別のことがありましたが、外国人ということで国籍だけで断られたという話がありましたが、例えば国籍を中国から日本に変えて、同じ会社を受験したとしても、その会社は採用してくれると思いますか?僕の考えでは、たとえ国籍を日本に変えたとしても外国人と見られている、と思います。
武洪霞
私は今は日本国籍に変えることもできるのですが、日本国籍に変えてしまったら中国籍にもどることが難しいと思われて、実際にそういうこともよく聞きます。中国には人口が多いから、ということなんですが。日本国籍に変えると日本の企業も受け入れてくれるでしょう。日本企業は多くは外国人を意識しているので、あまり受け入れる気持ちがないのではないかと思います。
鍛治
それでは、武洪霞のほうから、誰かに質問をしてください。
武洪霞
ビビアンに質問をしたいのですが、日本の先生や学校に堂々と言えることを持っていますが、彼氏に対してもそうなのですか?
ビビアン 彼氏に対してもそうです。考え方が四角いので、丸い人間にしようと思っています。別れたいと思っているのではないかなと、思うこともありますが、私とつきあっているので、これを乗り越えてもらわなくてはいけません。
鍛冶
でも、彼と個人的にお酒を飲んだこともありますが、趣味もたくさんあって非常に開放的な方だと思いましたが、四角いのは彼氏の家族の方ではありませんか?
ビビアン
前と比べたら彼もすごく変わりました。前は嫉妬や束縛も多かったのですが、今はそんなことはありません。
鍛冶
わかりました。では、鄭聖愛さんの方から、他の3人の誰でもいいですから質問をしてください。
鄭聖愛
そうですね、3人みんなに聞きたいのですけれど、ビビアンさんからはさっきブラジルに帰りたいと聞いたのですけれど、日本で結婚すると仮定して―こういう仮定をするのもいやなんですが―子どもや孫ができた時、子どもや孫にどういう教育をしたいのか。教育というのは民族的教育という意味で、例えば子どもにどこの国の言語を教えるのか、文化を教えるのか、ということを聞きたいと思います。
鍛冶
じゃ今の彼氏と結婚するとして、どこに住みたいのか、子どもにはどんな教育をしたいのか、教えてください。
ビビアン
将来はブラジルに帰って、お菓子屋さんをしたいのですが、基本的には日本では子どもを生みたくないです。自分の子を今の日本の社会で育てるのはいやで、できればブラジルで生みたいですが、もし日本で生むようでしたら、うちの彼氏はまだポルトガル語も完全にはわかっていないし、私だけポルトガル語を話してしまうと、どうしても彼と子どものコミュニケーションが乏しくなってしまうと思います。だから、たぶん日本の文化も教えてブラジルの文化も教えると思います。
鍛冶
じゃ、ビビアンの方から他の3人に、何か聞きたいことがありませんか?何でもいいですよ。
ビビアン
みんなの言うことが難しいのであまりよくわかりません。
鍛冶
じゃ僕の方から、ビビアンに質問していいですか?さっき私立の先生の答えを言ってくれて、私立の先生だから仕方がないと言ったんだけれど、やっぱり私立の先生は硬いところがあると思ったのかな?
ビビアン
やっぱり私立はお金で動いている学校だから仕方がない、と思います。(爆笑)
鍛冶
でも、僕が思うのは、これをやる前に私立の先生と会議をしたのだけれど、私立の先生はネクタイもきちんとしていて、やっぱり岸野先生と違うな、と僕も思ったのだけれど、こういう場に来ていること自体、輪からはみ出ているんだよ、私立の先生も。
ビビアン
そうですね。輪からはみ出ている人もいますけど、はみ出すぎると首にされるかもしれないでしょう。一番恥ずかしかったのは、みんなきちんとしているのに、岸野先生だけはすごい恰好をしていて、今日と一緒なんですけど(笑)、わあ恥ずかしいなと思ったんですけど、そういう先生もいたら楽しいと思います。私立の先生に、「なぜピアスぐらい自由にさせないんですか。自由にさせてください」と言うと、一人の先生が手をあげて、何を言うのかなと思ったら、「生徒指導は、するのは疲れるから先生はしないんです」と言ったんですね。そんな無責任ことで生徒たちが反発するから、余計にしんどくなるんじゃないかなと思いました。
鍛冶
はい、もう後2分ぐらいしかないんですが、最後に一言これだけ言いたいとか、質問したいとか、4人のうちでありますか?
武洪霞
私がさっき言いたかったことは、私は就職活動を通して日本の就職の制度の不平等なところが実際に存在しているということで、この場を借りて改めてみなさんにそれを伝えたかったんです。以上です。
鍛冶
他に発言したい人は?はい、どうぞ。
鄭聖愛
あの、武さんの話の中で日本名とかカナダでの名前とかを使い分けている、気分によって使うという話があったんですけど、その本名以外の名前を使うことは、武さんは本名でいって就職差別を受けたことがあると言っていましたが、そういう就職差別と闘うことと矛盾しないのかな、ということを聞きたいんですけれども。
武洪霞
自分が本名以外の名前を使っていることですか。私は、まず正式な場所では本名を使います。会社にとっては私がどんな名前を使うにしても、中国人であることは変わらないので、就職活動の時に本名以外の名前を使うとか国籍を変えるなんていうことは考えたことはありませんでした。これで、答えになったんでしょうか。
鍛冶
「ティファニー」という名前は付けたけれど、「武」を「スミス」にしたり「ジェームス」にしたりしたわけじゃないよね。
武洪霞
あ、そうですね。やっぱり中国っぽいですよね。
鍛冶
はい、わかりました。じゃ、すいません。時間が来てしまい、1分ぐらいオーバーしてしまいました。まとめようもないですね。戦争のこと、国籍のこと、在留資格のこと、学校のこと、先生のこと、就職のこと、結婚のこと。これだけまあ、いろいろ話題も出てきたんで閉めようがないんですが、今日は本当に僕も聴いていて楽しかったです。僕はあまりしゃべれなかったけど、でもすごくよかったです。では、これで終わりにいたします。最後に4人のパネラーの方にどうぞ拍手をしてあげてください。どうもありがとうございました。(拍手)