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第14回全外教セミナー奈良集会

これまでの歩みを振り返り、これからの全外教に期待するもの

全外教会長 藤原史朗

はじめに
今日までの「全外教」の歩み
「全外教」が大切にしてきたもの―「全外教」基本方針をふまえて
私が実践できた人権教育とはどの程度のものであったか
私の願う多文化共生の人権教育試論

はじめに

 よその場所で講演するのと違って、自分が今セミナーの主催者で、かつそれの講師であるというのは、どこか照れくさいものがあります。ただ、こういう格好でみなさんにお話するのは、全外教では本日が最後であり、その最後という1点だけで、今日「義理と人情」で参加してくださっている皆さんもずいぶんいるんじゃないかと思いますが、思いを込めて語っていきたいと思います。

 あっという間でございました。この間の11月26日に還暦を迎えました。したがって今日は若いめのネクタイをつけてきたわけです。このネクタイは僕が買ったんじゃなくて、『ゆれる心』という作品がありますが、あの中に登場した生徒達が卒業の日にくれたものです。これを身につけて語ろうと思います。

 僕は本来牧師になる男でしたから、よく聖書を引用します。「事の終わりは、始めにまさる」、旧約聖書コレヘトの言葉7章8節。生まれた時よりも死ぬ時の方がいいのだ、ということを、今から2500年ほど前の人達が書いているわけです。2500年前の人間が「事の終わりは、始めにまさる」と。

 1994年の11月に、当時全朝教の代表になったんだが、その時より今の方がいいのだ、ということで「何ができたんだろう」ってことを退職まで3ヶ月という状況にくると考えてしまいます。俺のできたことは本当に、これっぽっちの事でしかなかったなと、思う。そういう時に、この言葉は逆に励ましをくれます。

 僕の一番上の兄が、今72歳で、無理して、最後は三木市の教育長までやりました。今年の冬を越せるかどうか心配だったのですが、その兄貴の前で、「『事の終わりは、始めにまさる』、兄貴心配するな」と言おうかと思ったんだけども、当人を前にしてなかなか言えるもんじゃありません。
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今日までの「全外教」の歩み

 今日までの全外教の歩みというものを簡単に6点にわけてみました。何よりも、「本名を呼び名のる」、これが全朝教を結成していく段階での、一番の大きな方針であったと思います。今でこそ「本名」をあれこれ考える人が増えてきたわけですけども、当時において「本名を呼び名のる」のは、「教育運動だからといって、何をそんなムチャなことを考えてるのか」というのが世間全般の姿であったんじゃないかと思います。
 この頃の私は、尼崎工業高校から市尼(市立尼崎高校)の方に移って、まだ自分で基礎をつくっていくという作業に追われていたものですから、金井さんとか吉川さんとか、奈良の皆さんに比べれば、僕の参加の度合いは少なかっただろうと思います。1982年、全朝教が結成されます。大阪の森ノ宮の青少年センターで。その結成祝いの時に、アトラクションとして民族舞踊をやってほしいということで登場したのが、我が市尼の在日コリアンの女子生徒達であったんです。狭い舞台でした。これだったら三人ぐらいで踊ればよかったなと思ったぐらい舞台が狭かった。その時に、NHKの短波放送(海外向)が取材に来てまして、これがソウルにも伝わるんだというので、僕も非常に意気込んでインタヴューに応じたことを覚えております。

 82年に結成してから初めての大会を、83年に奈良で開催いたしました。どういう内容であったかというよりも、のちのちのために覚えておいてもらいたいのですが、会費をとった割には交流会の食べ物が少なかったという問題です。ビールは先に奈良の連中がグイグイと飲んでしまっている(笑)。各地からやってきたメンバーが一番不満に思ったのが奈良大会だったんですね。今日は、アットホームな内輪なセミナーだから、表向きの基調報告に出てくるような話をしたって仕方がない。こういう調子でやりたいと思うんですけども、奈良では、それ以後、交流会の会費は少ないのに飲み物と食べ物はガバッと出る、という形になってまいります。これは、鳥取の皆さん、滋賀の皆さん、山梨の皆さん、いずれやっていただきますから、よーく肝に銘じておいていただきたい。

 こういう批判を受けたのを反省点として、私達は1984年に兵庫で全朝教の大会をもちました。安くてたくさん、どうしたらいいか。ビールはあまり頼まない。焼酎をいっぱい並べる。在日コリアンの、韓国・朝鮮人の問題をやるからといって、韓国・朝鮮式の料理をたくさん入れない。入れる場合は、チヂミとかそういう類のものを入れて、蒸し豚とか、そういうものは極力抑える。高いですから。そのかわり何をやったか。おでんとか焼きそばとかパック寿司とか、そういう炭水化物系をいっぱい投入する。それで氷と焼酎を置けば、みんなカッカカッカと酔いまして、いい気分でした。ビールだと、僕らみたいな痩せ型の人間はだるくなってきて愚痴っぽくなりますが、焼酎はカーと頭にきますから、いけいけどんどんな話が出てくるわけです。

 その当時はまさに指紋押捺拒否の闘いの最中でした。だからよけいです。神戸の勤労会館を使ってやったのですが、その時のスローガンは、「本名を呼び名のる」を基本としながら、「本名で生き学べる学校・社会を」です。この言葉の中に、指紋押捺拒否の闘いを大きな起爆剤として、在日外国人にとって、日本人にとって住み良い社会・学校をつくっていくんだという願いが込められているんです。全外教の運動を担ってもらっている皆さん、そういう意味があったんだということを思ってください。これは全朝教運動のひとつの節目・変わり目であっただろうと思います。

 そこから私たちが目標としていったのは、全国各地に、とりわけ都道府県レベルにおいて、「在日外国人教育方針」を教育行政につくらせていく、要求していく、つくるにあたっては我々も協力を惜しまない、という全国的な展開でした。でもまだまだです。東京は全然ダメで絶望的な都になりつつある。全国の都道府県というレベルでは、まだ7つしかないんじゃないか。けども、市であるとか町であるとか村であるとか、この辺は、近畿を中心にいっぱいできあがっていきます。

 偉そうな事を言っておりますが、兵庫県の場合も、震災の後、やっと在日外国人教育方針をつくった程度なのです。私がいる市立尼崎高等学校がある尼崎市は未だにつくっていない。この間も交渉に参加したら、どう言っているか。「県がおつくりになったのですから、その県のおつくりになった方針にしたがってやりますということを私たちは申し上げております。文書でもそういう具合に書いて出してます」と言うんです。「いつまで人のふんどし・パンツをはきながらやるんだい、ええ加減にせえよ。尼崎という固有の現実があって、そこで独自の方策を考えていかなきゃだめじゃないか。県が出てるからそれでもうええんやと、なんちゅう無責任なことを言ってんだ」と、そういうことを言いましたけども、いかんせんまだ持ってないんです。

 県が出してるから市が出すのは簡単だろうと、僕らは思いますけども、彼らは出さない。そこに彼らの大きなミソがある。自分たちの手でやったら、責任を持ってやらなきゃいかん。予算も積まなきゃいかん。いろんな啓発の活動もしなきゃいかん、そういう責任生じてくるからですね。責任を避けたいんです。これは三谷さんから、あとでシンポジウムの中で出ると思いますけども、県であれ、市であれ、在日外国人教育方針や指針がある事がどれだけ大きな支えになるかということです。これがなかったら、単に好き者たちが、朝鮮や韓国やベトナムやラオスの子どもたちのことをあれこれ言うてるだけや、ペルーやブラジルやと言うてるだけや、大事なほんまの教育(学力)ができん連中がああいうことばっかし言っているんだということになる。これが現場ですからね。『教育方針』は、教育行政としてこの問題をやっていく、憲法のような大きな役割を持っているわけです。だからどうしてもこれをつくらせていかなきゃならないわけです。

 こういうことにウェイトをおく格好で1991年から展開していき、都道府県レベルでは、奈良県が最初にやったんです。大阪じゃありませんよ。大阪は後で、奈良を見習ってやるんです。他の県においても。ここは奈良の諸君を本当に褒めておかねばならんだろうと思います。若い皆さん、奈良が一番最初にやったんだぞ、食べ物と飲み物の少い割に金の高かった奈良がやったんだぞ(笑)、ということをどうぞご記憶ください。

 しかも在日外国人という表現をとったというのは正しかった、と思います。なぜか。いわゆるニューカマーズ、新たに日本にやってきた多くの労働者とその子どもたちの問題が出てまいります。これが一九九六年だったかな、東京での大会で出されます。初めて東大という建物に入りました。汚いですね。ペンペン草は生えてるわ、便所に落書きが書いてある。けっこう差別落書きが多いらしいですね。だいたい偏差値の高い大学は差別落書きが多いとか。じゃあ、低いところは少ないかというとそうでもないだろう。そこが差別問題の普遍的な点だろうと思います。だいだい便所を見てみたら質がわかるんです。学校も、喫茶店もレストランも。これは僕が生徒諸君にいつも言っていることなんです。「便所をきれいにせえ。そこからすべては始まる」。

 新渡日の皆さんが増え、この子どもたちの問題から多文化共生の人権教育に向かう流れが出てきます。在日韓国・朝鮮人の問題だけではない。在日コリアンの問題を根底にすえながら、物理的にはものすごくしんどいニューカマーズの子どもたちの問題を、全朝教としてもとりくんでいかなきゃいかん、我々の組織の名前も変えていかざるをえないという形になっていったわけなんです。つまり、在日外国人教育方針という表現をとることによって、私たちの視野がもう少し広がっていかなきゃいかんという形で、自らを変えていったと思います。

 2002年に、三重県で三重大会を開きました。三重大会自身は全朝教(全外教)という格好でやりましたけども、それ以降、全面的に全外教という組織のもとに今日まで展開してきたわけです。
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「全外教」が大切にしてきたもの―「全外教」基本方針をふまえて

 ざっと、これまでの全外教の歩みというものを話させていただきました。そういう全外教の中で大事にしてきたものが何点かあるわけです。その第1点は、在日外国人の子どもたちを核にした教育実践を中心とする教育運動だということです。私たちは、あくまでこれにこだわり続ける。こだわり続けるが故に、今日まで、ゆるやかではありますけども、それなりの組織体として今日まであり続けることができたんであろうと思います。

 そして第2点は、スタンスは違いますけども、同じような思いで全国にがんばっている皆さんがいっぱいいるわけで、まだまだ僕らは全部が全部手を結べているわけではありませんけども、そういうさまざまな教育運動団体と連帯していく全国的な連合組織なんだ、上から下への関係じゃなくて横につながっていく組織体であるということです。

 第3点は、この教育実践の研究と交流を第一にして、人権の闘いというものを教育の現場に根ざしてやっていくということです。教育の現場からはずれてやってしまった場合には、一時的に大きな力を出せても、どうしても自分の基盤を失ってしまうということがあります。あくまで、学校教育に限らず、教育の現場に根ざしながら人権の闘いを行っていくということです。

 第4点は、教育行政に対して、我々の実践を示しつつ、教育行政の責任・業務の遂行を求め、互いの立場を踏まえて共同行動を行うということです。行政には行政の立場、我々には我々の立場がありますから、そういったものをお互いちゃんと認めあった上で、共同でできる時には一緒にやろうではないか。単に教育行政批判だけをやっているんではなくて、「私たちも参加するんだから。あなた方も一緒に参加していってください」という形でやっていくということです。
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私が実践できた人権教育とはどの程度のものであったか

 そう言ってますけど、藤原がどういうことをやってきたんだ、中身は一体何なのか、ここをある程度申し上げておかないと、単に代表だとええ格好してきただけじゃないかということになるだろうと思います。若干この辺の話が長くなりますけども、聞いていただきたい。

 1971年に県立尼崎工業高校の教諭になります。皆さんのように、難関な試験を突破して教員になったんじゃなくて、僕は特別選考というスペシャルコースでもって教師になったんです。結構スペシャルコースで教師になってる人がいるんですよ。何でわかるか。後で試験受けるんです。後で試験受けに行った時に、「こんなスペシャルコースは裏口だから10人ぐらいかな」と思ったら、100人くらいいるんです(笑)。僕なんかの類の10人くらいはどんなんであるかっていうと、教育現場が学校長に要求して、学校長が何とかこの人物を尼崎工業高校の先生に雇ってくれと県教委に推薦するわけです。で、県教委がOKした場合に、OKになる。ただし、条件があって、「先生、今度試験があります。何とか70点以上とってください」と、学校長が僕にお願いするんですよ。おもしろいなあ、今から考えたら想像もつかない。「それでダメだったどうするんですか」というと、「ダメでも教壇には立っていただきますが、教諭ではありませんので、ちょっと給料が下がります」と。

 学校現場は、荒れている子どもたちを放って逃げていく教師じゃもたないんです。耐えうる教師が欲しかったわけです。これは県教委も認めざるをえなかった。その荒れている子どもたちの中に、在日韓国・朝鮮人の子どもであるとか、部落の子どもであるとか、いろんなしんどい課題を背負った子どもたちがやっぱりいるわけですね。単に現象的なしんどさじゃないんです。その子たちに本当に寄り添っていけるのかどうか、というのがあったんです。

 転勤願いはざらに出るし、「実際、やめさしてもらいたい」と妻子に黙って遠くまで逃げた先生もいますから。現場がどんなもんであったか、想像できると思います。今、校内暴力だなんていってるけど、当時の尼崎工業高校の僕らからすりゃちゃんちゃらおかしいですよ。僕がいない時だったけども、体育祭の帰りに、生徒が酔っぱらったんでしょうね、警官ととっくみあいになりまして、警官が威嚇射撃で「ダーン」とピストルを撃ったら、その生徒が腰抜かして、そこで逮捕されたらしいんですね。逮捕された後の姿が生々しい。警棒が折れているんですよ。警棒って中に鉄心かなんか入っているんでしょう、どれだけの喧嘩したかってことですね。僕が出てからだけども、当時そんなことが起きてても、さもありなんってぐらいでしたね。それは現象的なしんどさなんです。

 一番しんどいのはその中身です。その後、校内暴力が全国的に問題になってきましたけども、「お前らもやっと、俺らのしんどさがわかるか」と、そういう気持ちでおりました。だから、学校へ出かける時に、今日無事帰ってこれるかな、という思いの毎日でした。生命保険に入ったのはその時です(笑)。

 その尼崎工業高校の中で、僕は初めて在日韓国・朝鮮人の実態というものにもろに出会ったと思っています。今言っていることは、ブックレットの中にみな載ってます。さらに映像ですが、本当に苦労して、谷さん夫婦と僕でつくっている『チョゴリと本名と』っていうDVDの中に出てきます。これなんかにリアルに美しく出ていますから、後で一緒に見ながら僕のブックレットを読んでもらったらいいんです。

 徐光一という生徒。1年間にお父ちゃんから始めて3人入院し、家は福山から尼崎に7年前に移ってきて、3か月の滞在許可をもらって市の仮設住宅におったんだけども、7年たってしまったんです。遂に市が行政権力を行使して撤去する。兄弟6人。親2人、いとこ、もう大所帯でしたが、関係なしに、業者を雇って屋根をめくるわけです。梅雨時でした。尼崎工業高校へ入った4月の2か月後です。われわれはおっとり刀で駆けつけて、何とかとめて、別の仮設住宅を斡旋させることになりました。

 こんな現実というのが手を替え品を替えして、今もあるんじゃないかと思いますけども、そういうのが、運動がないところで出てくる。そういう問題が放ったらかしになっているところがいっぱいある。それに近い姿でしょう、ニューカマーの子どもたちが置かれている状況というのは。

 あれはやっぱり掛けあいに行ってよかったなと思います。行ってなかったらどうなっているでしょうかね。事の起こりはこうでした。「先生在学証明くれや」「何すんねや」「帰化すんねや」「そう簡単に帰化なんかできるもん違うやろ」「帰化したら市営住宅入れたろて、市会議員が言うとる」というわけです。「そんなにうまくいくわけないやないか。何で市営住宅入らんといかんねや。今の住んでる場所やったらだめなんか」ということを聞いた時に、ポロッと当人が「立ち退き命令されてんねん」。だからわかったんです。「ああそうか、そんなら在学証明書渡すわな」でやっとったらそのまま終わりなんです。先生方、子どもたちが要求してくる時には言葉数が少ないので、その背景にいろんな事があるんだということを知っておいてもらいたいんです。これが在日韓国・朝鮮人、在日コリアンのおかれた状況なんかと。

 京都の朴実のお話を聞かれた事もあると思います。僕が京都でいろいろやっておった頃の、教会青年の仲間です。彼が、初めて僕に自分がコリアンだと言うことを打ち明ける場面を、今でも忘れませんけども、僕自身はどう言ったか。「新井、黙っとけ。俺らは、お前のことを朝鮮人やと思えへん」と一生懸命言うておるんです。偉そうなことを言えんでしょう、人間というのは。レーニンとかスターリンが変貌していく如く、藤原も実はいろんな変貌があったんだ(笑)。そうすることが通称新井・朴実を護ることだと思いこんでるんですね。これが尼崎工業高校に来たことによって、大きな間違いだったことがわかってくるんです。

 朴実は、自分の抱えている問題というものをきれいに整理して僕らに話してくれていますね。今日も何人か在日コリアンのみなさんがいらっしゃってると思いますけども、だいたいこういう場に来る在日コリアンは自己を整理してきているんです。矛盾だらけで、そのまま参席している人はあまりないです。逆に日本人で酔っぱらって入ってくる先生もいますけどね。それは、ちゃんと自分が整理できていないから酔っぱらうわけで(笑)、在日コリアンでこういう場所に来てくれる人達は「日本人は、この辺までは答えることはできるだろう、しかし、これ以上はわからないだろう、本音はまだ十分見えないけども」という具合に、自分でちゃんと整理している。

 ところが、目の前の子どもはそうじゃないんです。もろですね。何とか仮設住宅を保障させて、なおかつ自分の本当の名前で学べという事を要求していくわけなんです。これは正しいことです。それが当人に届かない。みなさんも体験されているように、「お前の本当の名前で学ばんかい」って言った時に、そう言っている先生が一番の差別者であると生徒は思いますからね。今も昔も。そのように働きかけている教師を見て、まわりの日本人生徒が、あの教師は人の生活に割り込んでくる嫌らしいヤツやと、あいつがこの世の中を暗くしているんだと、学校で吹聴しますからね。それに、教員がまたのりますから。そうやそうや、あの先生さえいなくなったら同和問題も在日朝鮮人問題もなくなんねやという具合に陰でヒソヒソというのが、未だに変わらん現実でしょう。

 結局、彼自身のカムアウトを導き出して、そのことを日本人の子どもたちが受けとめ考え共有しあっていく中で、クラスをまとめあげていくという、そういうとりくみに発展させることができなかった。

 当時、1973年高砂熱学というところが大変な差別事件を起こします。新卒募集に際し、尼崎工業高校に「あらかじめ、部落出身・在日朝鮮人とわかっている生徒は本会社に斡旋しないでください」と、電話してきたんです。これを、大阪府連がその年の最大の闘争課題として闘ったと思うんですけども、当時の尼崎工業高校の教師もおっとり刀で、出かけていって証言しながら糾弾闘争に参加していく。これは高砂熱学の全面降伏でした。

 高砂熱学というのは、エアコンの会社でビッグな存在です。ここへ僕の担任した生徒を入れていくんですね。けども学力が身についていません。文化系の学力は、ある意味であとでいろいろと補強できますけども、工業高校ですから、設計・製図の問題を真面目にできてなかったら、現場で通用しないんです。現実にその辺のこともあってか、先に入っておったメンバーでやめていったメンバーもやっぱり何人かいますね。うちの徐光一の場合は無理だなと思って、担任を二人でやっておったんですけども、家庭訪問し、夜中の2時ぐらいまで待って、やっと当人が帰ってくる。仮設住宅のガランとした部屋の一隅で「お前、やめろ。会社、自信ないやろ」と、我々の方から言いました。工業の勉強というのは甘いもんじゃありませんから、平行線がちゃんと描けない、これではあかん。でも、辛かったです。こっちは本名でがんばれ、この会社に入れと学校で推薦し、本名で願書を出し、向こうが本名で内定書を出してきたんですからね。親は入院中でした。本当に涙流して喜んでましたからね。それを今度、「やめ」って言いに行くんです。「もたへんやろ」って。当人は「わかっとる。俺には向いてへん」「いつ言いにくるか待っとったんや」と答えてくれました。

 僕の尼崎工業高校におけるところの教育実践というのは、同じクラスの中のあとの二人の韓国・朝鮮人の子に関してはそれなりに形をつくっていきましたけど、実質はダメだったんです。負けというか、敗北の闘いというか、挫折であったと思います。でも、ここで初めて在日朝鮮人の姿を知ったと思います。

 もう一つは、こういうとりくみを学校として展開していく(僕なんかを採用させるぐらい当時の尼崎工業高校の教員集団は力を持っていました。1969年に同和対策事業特別措置法が施行されたこともありますけども)ぐらいの力を持っておったけども、教職員組織をどうつくっていくかという点ですね。組織の問題性ってのが実はいっぱいあったんです。それはどういうことか。簡単に言えば、ダメな現象が出てきた時に、そのダメな現象の責任を担任個人の責任に転嫁させてしまう。そしてメクリと称して、えんえんと責任追及が続く。嫌だったなあ。あるとこまではチェックなんですよ、それはいいんですよ。度を超していくわけや。セクトがそういうことをよくやったでしょう。外側の状況を打破できないから内側へ向けて、「お前がおるから世の中は帝国主義なんだ」というとこまで突きつける、そういう倒錯したやり方ってのをやっておったんです。

 僕ぐらいじゃないかなあ、尼崎工業高校にこだわりを未だに持ち続けている男は。僕と同じように尼崎工業高校にスペシャルコースで入って、今度強制配転でよそへ行った連中は、今や校長就任のオンパレードですよ。別に校長になったらいかんていうんじゃないんですよ。「俺は校長になっても部落問題と朝鮮人問題を手放していない」って頑張ってる者たちは少ないですね。ほとんどいませんね。校長になってもやったらいいんですよ。誰かが校長やらなきゃならないんだから。金日成も金正日も変貌しますね。僕もそうかもしれへんけども。

 そういう大きな問題を個々の担任の実践だけに責任転嫁させて、そこで組織をまとめあげていくという恐怖政治、こんなものは外からの弾圧に対しては絶対もろいですよ。命賭けて闘おうと思いませんから。搾取というのにはね、物質とかの搾取だけじゃなくて、精神における搾取もあるんだってことを僕はあの時学びました。俺は絶対そういうやり方はしない。やってはならん。

 偉そうなこと言うけども、尼崎工業高校から市立尼崎高校(市尼と略)に転勤していくのですが、もうちょっとで教師クビになるところだったんですよ。「お前は転勤願い出したのか。クビにしたろか」って、目の前で言われましたからね。それは恫喝じゃない、本当にできる力があったんですよ。だから労働者独裁の世界に対して僕は、夢を持っておったけども、夢がなくなったなぁ。労働者独裁になっても、治める者と治められる者における矛盾・対立ってのはあるんだな。

 あの時に、岡本清一先生の『自由の問題』って岩波新書の本があるが、あの本は本当に名著だってことがよくわかりました。岡本先生は、スターリン批判の生じた時代に、人々が「スターリンは悪いヤツだから悪い思想になったんだ」というような批判じゃなくて、科学的に、歴史的な支配と被支配の関係が終っても組織におけるところの支配と被支配の関係があるんだ、この問題をちゃんとやらない限り、おかしくなってしまうんだ、と言ってますからね。

 ちょっと難しいアカデミックなことを言いましたけどね(笑)。これは、皆さんそれぞれの場で、僕のような立場になっていった時に、常に考えなきゃいけないことなんです。昨日までの仲間であっても、組織の長になってくると、立場が変わるんですよ。挨拶ばっかりやってきましたからね、この10年間(笑)。あんまりこういうことを言っていたら、年越さないうちに死んでしまうんじゃないかと思いますが。

 さっきの点を、もうちょっと分析していけば、反差別の事を一生懸命やるってことは、本当に素晴らしいことなんで、これ抜きに人間を語るってことはできないと思うんだけども、そこから外れてしまったらもう人間じゃないと組織がきめつける。いわゆる「非人」扱いです。こういう排除の論理も絶対ダメだってことですね。これも一つ覚えておいて欲しいと思います。やっぱり、民主的な組織でなかったら負けますよ。

 間一髪ってとこで市尼に移っていったんですが、その時に、尼崎工業高校で自分ができなかったところの問題、ダメだったところの問題を、かなり自分なりに分析してまとめていきました。ただ、尼崎工業高校に比べて市立尼崎高校は、普通科ですから大学受験というテーマが上からぶら下がってますから、それが倫理を形成していますから、全然違うんです。それから女の子がいるでしょ。工業高校でなくても、男子ばっかりでやってるとこがあるでしょう、あれは残酷ですよ。残酷な仕打ちですよ。どんなことがあったか。4階の部屋から見てると、下のバス停のところで僕のクラスの生徒が二人おるわけです。その前を近くの中学校の女の子が、学校から帰っていくんです。それに向けて、石を投げとんですよ。あたらんように、振り向いてくれるように。寂しいなあ、と思ったなあ。自分でよう声をかけへんわけや。そう言ってる僕だって、尼崎工業高校に5年間おったんですけど、県の教員住宅で、他の先生の奥さんなんかを見るでしょう。真っ正面から見れなくなるんですね。野郎ばっかりで生活していると。梅田に出てきたら全部べっぴんさんに見えるっていうか、「うわあー、女やあ」って感じなんです(笑)。こうなるんですよ本当に。あれは残酷です。

 市尼では部落差別発言から端を発した人権学習がある程度進んでおりました。その中に在日コリアンの問題を含めて展開していくというかたちになっていったわけです。同時に、前期後期、全校一斉人権学習特設ホームルーム、そういうシフトをつくっていきました。それについては、『生徒がチョゴリを着るとき』という私の著書がございます。皆ね、自分の読みやすいとこだけ読んでくれて、本当に読んで欲しいところを読んでくれない(笑)。それは何かと言いましたら、差別に抗する人権学習特設ホームルームの展開と展開方法、どうクラスの中で討議を組んでいくのかってのがあるんです。なかなかカムアウトまで進めない部落や朝鮮の生徒がいる場合には、どう展開していったらいいのか、理論的に展開してるんです。これを本当は読んでほしいんです。こういう格好で特設ホームルームってシステムをつくってきました。

 片方で当時の韓国民主化闘争との連帯問題がありました。今日の韓国では想像できないほどです。1980年の5月、光州の民衆の反乱がありました。あれがテレビでばんばん放映されてるわけです。今30代初めの先生方は全然記憶にないでしょう。すごかったですよ。実は、その2か月後に僕は渡韓しているんです。僕の同志社の時の後輩にあたり、市立尼崎高校の卒業生である金哲顕、彼を訪ねて光州の刑務所、矯導所っていいましたけども、そこに行きました。30分の面会。銃剣の下をくぐるという体験をしたのは、この世代の中では、僕ぐらいじゃないですかねえ。通る時に絶対にメンチ切ったらあかんって思いましたね。メンチ切ったら刺される。戒厳令は一応もう撤回されておったと思います。2か月後ですから。けども、そういうやり方みたいなのはまだ残ってますからね。

 30分の面会。僕が日本語で喋る、金哲顕も日本語で喋る。そのことを全部ハングルに訳する。片方で筆記する。これに時間を要するわけですね。刑務所の職員がね。私は「君の事をみんなが心配してます。みんなが心配してます」こればっかり繰り返していました。つまり、みんなを支援する組織があるんだぞってことを刑務所の係官に教える。そうすることによって、一定のプレッシャーを当局にかける。何しろ死刑判決なんですから。後で減刑されて、最終的に日本へ帰ってきましたけどね。当時、本当に死刑がいつ執行されるかもしれない。そういう彼に僕は会いに行ったのですから。

 でもその翌日、ソウルにもどって、他の政治犯の皆さんを支えるために本を一杯買い込んで持っていく。その時に僕と一緒にいた立命館大学の某学生が、借りてきたキャノンでバシャバシャバシャバシャ刑務所の写真を撮ったんです。「やめとけ、危ないぞ」って言うんだけども、ヒロイズムですね。さあ終ったな、帰ろうと思ったら、「カメラカメラカメラ」と叫ぶ群衆に取り巻かれて、そのまま第2ゲートの奥ですよ。4時間、えんえんと、同じ事を何度も何度も取り調べる。

 途中僕は、前の日にキムチを食べ過ぎ、ガバガバお茶飲んだもんで、下痢になってですね、便所行かせてくれって、便所にいきました。そうしたら、紙がないんですねぇ。「paper , paper , paper」って大きい声で叫んだら、向こうの係官が恥ずかしそうな顔をして、それは庶民と庶民ですよ、こうして紙をさし入れてくれましたね。出てきて、「the sky of Soul is very clear」って言うてね。英語でええかっこ言ってね。本当にきれいでした。お腹もすっきり、空もすっきりっていうか。そしてそれからまた始まるわけです。

 そしてこれでもう終わったんかな、と思ったら、移動せよと言うわけです。どこに移動するかと問うと、「大使館、大使館」って言う。大使館に移動できるんだなー、これで助かるんだなあと。ところが黒塗りの大きな車が来ましてね、乗用車が。やっぱり日本人やったらこういう待遇するのかなと思ったんですが、入ったら、クーラーが一切効いてない。窓ばっちり。「あら、これはおかしいぞ」と思った。そうしたら今度は第2情報課の方へまわされた。ここでまた、延々と。

 その時に、たまたま情報交換でやって来ておったソウルの信用金庫の呉さんという方が横で聞いてましてね。ツカツカっと僕らが取り調べを受けている場所へやって来まして、「何で日本の先生がこんなところにいるんですか?」って日本語で話しかけてくれたんですね。もう内心、「しめた。助かるかもしれん」っていう思いになりましたね。「私達は政治的な意図も何もない。ただ韓国の状況がわかってなくて、こいつが写真をバシャバシャ撮って、それで捕まったんです。4時10分に全日空に乗って帰らなきゃなりません」。時間が昼越えてましたから、2時ぐらいだったと思います。「なんとかお願いしたい。こんなことやっている暇はないんだ」。

 僕はそこで学校における本名の問題と、それから当時国籍条項があった兵庫県の教員採用試験について話しました。兵庫では「東の藤原・西の神谷」(笑)と言われるんですが、その神谷さんの教え子が、英語の教員採用試験に願書を出したんですね。それが門前払いだった。「この問題があるんだ。早く日本に帰って、皆さんの同胞を差別している行政と闘わなきゃいかん。こんな差別にまけぬよう、本名を名のり、どうどうと韓国人として生きていけるように努力している。この彼(金哲顕)は市立尼崎高校の卒業生なんだ。死刑減刑の嘆願のため、みんなの署名をもって獄中訪問に来たに過ぎないんだ」ということをこんこんと説いた。それをすべて訳して伝えてくれた。そうしたら、その5分後ですよ。「失礼しました!」って釈放ですよ。「しめたな」と思った。

 しめたなってことはこういうことです。仮にあそこで刑務所の壁を越えて脱走できたとしましょう。どこに行くんですか。井上靖の「僕たちに帰る道はなかった。国境の底を歩いて帰る以外に」ですよ。みなさん井上靖って知ってる人は少ないでしょ。彼が捕虜体験の中で書いた詩ですね。「海峡の底を歩いて帰る以外」。たとえそうしても、何もできない状況っていう、こんな中で私はあほやったなあっていうことを、ほんまに思いましたね。ハングルができるわけやない、韓国に僕たちの友達がいるわけやない。基盤がないわけでしょう。ほんまに、在日の問題を話したことによって釈放されたと、これがポイントやなと思いました、あの時。だから金芝河の「我々の民主化闘争に支援の声を日本が送ってくれるのはうれしい。けどもその前に、我が同胞に対する差別・抑圧を撤廃せよ」ってことを、偉い人ですね、言ってますよね。三・一独立運動に関する日本人への提言で。あれを本当に身にしみて感じました。こっからやるしかないんだっていうこと。そっからやっていくわけです。

 当時、韓国で紡績会社の女工さん達の闘いがありましたね。鄭ジョンボさんでしたか、あの人がそれをオペラにした。向こうの結婚式場も歌歌ってますからこっちも負けないで歌います。
「♪夢から覚めれば、むなしい心。むなしくとも目覚め。大波に備えよ、いつかくるその日。我らは立ち上がる、手に手をつないで。波に立ち向かえ」(拍手)。

 こういう歌をあの頃覚えたのです。自分だけで歌ってんじゃなくて、即、文化祭で、当時再出発した朝文研なんだけども、そこで生徒達にこれを教えて、文化祭でやったんです。その辺からいよいよ本腰になっていくわけです。

 市尼といえば「本名とチョゴリ」、この二つを大きな軸にしました。チョゴリは僕が思うに、在日コリアンにとっては旗ですよ。長嶋が一生懸命「ジャパンの旗、ジャパンの旗」って言ってますけども、あの人は日韓ダブルらしいですが、「for the flag じゃなくて for the チョゴリ」だな。我々、在日コリアンにかかわる教員にとって。旗ですよ。しかし、そうは着れない、チョゴリを。日本人の子どもたちは、文化祭なんかの試着会でうわーって着ますね。でも韓国・朝鮮人の子どもたちは着れないんですよ。重たいんだ。よくコリアンの女性たちが結婚式では着るけども、その後、着替え室へ行ってケースの中へ入れて、ふだんの格好して帰っていくんだから。

 チョゴリを卒業式で着るって事は、韓国・朝鮮人として社会の中に出ていく、その出発の決意表明みたいなものなんですね。多くの反発も招きました。それは生徒諸君からじゃありません。親たちからです。「藤原は、市尼を朝鮮学校にしたいんか」。こういう陰口が出てくるわけですね。もう出ませんよ、今は。来年やったら通算17回、17回ですよ。毎年じゃありません。僕は1976年に市尼に来たんです。そこから今日まで17回。毎年はできないんです。こちらにすればとりくみの度合いです。それから生徒達の意識です。ここに大きな、時代の変化というのが映し出されてくるわけですけども。

 そんな中で、1984年に指紋押捺拒否の尼崎の第1号が出てまいります。金祐煥です。あの時の押捺拒否の闘いのことを振り返ってみた時に、ひとつはっきり言えることがある。高校生達で、押捺拒否に踏み込んだ高校生ってのはみんな本名です。通称名で押捺拒否に入っておった子は途中で撤回してますね。最後まで頑張り続けた高校生達。想像できますか?目の前の高校生達と比較して、一時間半ぐらいに及ぶ警察の取り調べに、一人孤独に耐えるんですよ。すごいなあと僕は思ったなあ。俺たちの方がビビってんだけども。そういう子がでてきます。

 ちょうど1984年の兵庫大会の後でした。自分で洗濯機の中に外登証を放り込んで、押捺拒否やってから僕に電話してくるんです。その前に電話したら、俺がとめるってことを、金はわかってるもんだから、自分で押捺拒否やってから、連絡をしてきました。『俺、指紋押してへんねん』という本の中に詳しくレポートしておりますから、また皆さん時間がある時に見てください。

 本名でなければできなかった。つまり市尼における本名宣言は、実は「自分が人間である」、日本人と対等な人間なんだという宣言であり、その意識に目覚める時に、「何で俺たちだけが押さなきゃいかんのか」ってことになってくる。そこまで人間的に高められていっている。これは非常にしんどいけども、そのように高められるところまでいかないと「拒否」はできないのです。自分だけじゃなくて同胞全体のためにも頑張るなんてことは、よほど人間的に高められていかないかぎりできない。そう思います。

 この間、岡山から送ってきてもらった『通信』にも、ジーンとくるものがありました。岡山は、僕らから見れば、陥没している地域だけども、倉敷というパンフレットに、ある人権作文が載っています。在日の黄さんという女の子が、いじめにあったことをきっかけに本名で通学し始めたんですね。「いじめにあった時に、好きで韓国人に生まれたんじゃないって思いました」。好きで韓国人に生まれたんちゃうわい。これはよく言うてきましたね。そういう姿勢で生きてる時ってのは弱いんですね。たしかにインパクトを強く相手には与えるけども、実は弱いんですね、そこだけやったら。

 そこから、「でもこの経験は私を強くしてくれたと思います。初めはあんなふうに悪い方へ、悪い方へと考えていました。好きで韓国人に生まれたわけやない。でもその時に母のことを考えました。お母ちゃんが」、母は、本国の人らしいんだけども、苦労して苦労して頑張っている姿を見た時に、「韓国人がどこが悪いんや」って気持ちに変わっていく。韓国人であることを、積極的に捉えようとするんですね。僕はこれが本名やと思います。何度も何度も教育現場で皆さんも体験されてきてるんなじゃないかと思いますけど。

 そういうとりくみというものを、ちょうど押捺拒否の闘いに一定程度、展望が見えてきた段階で出したのが、この本です。『育ち行く者たちと共に』。これまた名著なんですね。特に、僕の知り合いの朝鮮人のメンバーは、「一番いい」って言ってくれますね。「あと出てきたやつは、ちょっと藤原さん、商売っ気があるで。これはそういうのがない」(笑)。初めて単独で自分で出した本です。

 この本の中心においたのは、鄭真佐美。彼女を尼崎市役所に入れることができなかったのが82年。これの6年後、やっと本名で、尼崎市役所に、市立尼崎高校出身で初めて朝鮮人の子が市の職員になっていきます。彼女は、金直美と言います。役所の現場で、二回も差別落書という手痛い仕打ちを受けながらも頑張って頑張って、今、30なんぼやね。やめる気なんかまったくありませんよ。えげつない差別落書でしたね。職員便所の中に「金直美」と書き、わざわざ「キムチンミ」っとフリガナがふってある。そして「こいつ朝鮮」と書いてあるわけです。「私をここまで紹介してくれてるやん」と彼女はケロッとしています。完全に向きあって堂々と生きてますから。

 この子の妹の場合も面白かったなあ。あるスケ番の女の子にガレージの中に引っ張り込まれて、「あんた朝鮮やろ」って言われたんですね。「そうよ。本名で行ってるもん」って言い返したらしいんだな。そしたらスケ番の女の子が、「そう、もうええわ。もう、帰りぃや」(笑)。僕はそのスケ番の女の子も同胞であったんじゃないかなって気がするんですが。「本名は強いわ」と言ってましたね。

 本名問題を軽く見てはいけません。本当に大事。えてして、我々日本人は、自分が本名で生きてるから、軽いと思ってしまうわけ。でもこの名前こそが自分の人格を外に出して表わす、表現するものであるわけです。

 こういう格好でその後ずっと展開してまいりましたけども、そこいらの内容というものを、本だけじゃなくて、ニュース番組と、まとまった作品としての『揺れる心』と、その『揺れる心』を、本国ソウルの映像集団のメンバーが、部分的に借用しながら出した『本名宣言』、『ポンミョンソニョン』という作品ですが、これらを一本のDVDに再録しました。材料費だけで600円です。これだけのしんどいいろんな思い、ぜひ本当に、観てやってください。

 それを観せながら、PTAで講演をした時に、お母さん達が、「先生、まとめの文章をお願いいたします」っていうのね。自分たちでまとめんかいと思ったんだけども、これもね、俺にとってうれしいことですよ。PTAが初めて僕をまともに呼んでくれたんですよ。市尼に1976年から今日までおって。

 以前一回呼ばれました。「先生はどういうことをなさっているんですか?」という詰問のために。「先生は強制的に本名にさしてるんちゃうんか」と、PTAのメンバーが私に迫った。「あなたは朝鮮人ですか?日本人ですか?」と反論した。あの時、金直美のお母さんがたまたま来とってね、「うちの娘は、自分の意志で本名になりました。そして今、市役所で働いています。良かったから、次の子も、その次の子も、皆本名で行かせました」。僕を詰めとった副会長のお母さんは、アーンですよ。何にも言われへんでしょ。その3人目の子がチョゴリを身につけて、震災があったもんだから、よその学校の講堂で卒業証書を受け取る場面がこのDVDに出てるんですよ。

 やっと2000年になって、念願であった在日コリアンの先生が、中国語の、この方はまだ講師ですが、誕生したんですね。英語の資格で受けてもらって、誕生しました。でも彼女も、これからが勝負でしょうね。ほんまに自前で、自分だけじゃなくって、同胞全体のことを考えて、教師としてやっていけるかいけないのかという。正念場であろうと思います。在日韓国・朝鮮人の教員を誕生させていくには、それなりにものすごいエネルギーがかかる。また、そのことをきちっと受けとめられる人物を選んでいかなきゃいけない。
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私の願う多文化共生の人権教育試論

 朝鮮半島と在日コリアンの問題は、日本の歴史の曲がり角で、決定的な役割を担っている。この間、拉致問題が出てくる中で、日本国内におけるところの、対朝鮮・対韓国・対在日コリアン、この見方っていうものが悪い方へ、悪い方へ変わっていっているってことを、お思いになりませんか。『雪のソナタ』っていう作品ぐらいでしょう、「うわー、韓国って素晴らしいね」ってのは。あと、我々日本人のコリアンを見る目つきが変わってきている。これは子どもたちにもやっぱり出てますよ。あるいはマスコミもそうですよ。在日コリアンだっていうことで、ジャーナリズムは気遣った文章を書いてきたでしょう。ところが、マスコミにしたって好き放題でしょう、最近。典型は、いうまでもない石原さんですね。あの人、3回公的な場所で、えげつない発言やってるんですよ。「三国人問題」発言やりましたね。その前、「北鮮」ってやってるんですよ。それはアカンってことを片方で筑紫哲也が言って、言い直したような感じやけど、また「北鮮」て使うんですね。そして今回ですよ。

 これ僕、ちゃんとテープ起こしやっていますし、そのテープも持ってますから。あの頃からだんだんだんだんビデオってすごいなってことを思いまして、今やビデオマニアになっていますけど。必要な時、我が家のビデオライブラリーを用いて下さい。雑然と並んでますけど。役に立ちますよ。下手な説明加えるよりビデオで一発や。

 日本の歴史の曲がり角で、朝鮮が最近決定的だということ。最近、岡山の韓国教育院で講演させてもらい、その翌日、皆さんと一緒に鬼の城を見に行きました。僕はもう6回ぐらい行っています。今、鬼の城の城門を復元しています。太い柱は、ヒノキ材です。その鬼の城は何のために建てられたか。663年の白村江の戦いに日本は大敗し、唐・新羅の連合軍が攻め込んでくるという状況を想定した。実際は、進駐軍としてやって来てますけど、戦闘にはなってないらしいですね。

 けどね、これ見てよくわかったのは、何で「大化の改新」で中国の唐をまねしたかでした。皆さん、説明できますか?唐・新羅に対して大和は無条件降伏だったんです。だから唐のシステムに変わっていったんですね。ちょうど第二次大戦の後、日本がやたらにアメリカのシステムを導入したように。それに匹敵するくらいの出来事だったんだ。その白村江の戦いのために、鬼の城の近くの二万の地から2万人の兵士が、ETVの解説で「自分たちの父祖の地に攻め込んだ」と言っていますね。朝鮮から来た者たちが支配層の吉備王朝、その父祖の地に攻め込んだ。「天皇いたくよろこびて、ここを二万となづける」。「二万」という地名がちゃんと残ってるんですね。そこをですね、岡山の在日のメンバーと歩きながら、本当に、日本の歴史の曲がり角、曲がり角で朝鮮があったんだということを実感しました。この軸を絶対にはずしてはならんということを言いたいんです。今から在日外国人教育を展開していく時に。

 それから2つめは、あの人はどういう人なんか、一回読んで研究会やったらいいと思うんですけども、関曠野さんの『民族とは何か』という本。遅まきながら私も読みました。あの中に「日本は臣民国家を形成したけれども、民族国家を形成できなかった」というくだりがあるんです。民族というと古きもの、過去のもの。スターリンなんかは、いかに民族を用いて一国社会主義をつくっていくかと、逆に利用主義的対象として民族を見ていますね。そんなもんじゃないだろう、大変な問題なんだということが21世紀になってから、うわーっとでてきてるわけです。毎日、我々民族問題にぶつかっているんですよ。民族っていったん何なのかっていうことを、真剣に考えてみるべきだ。

 よくホームルームで、「国籍とか民族なんか関係ないやん」って生徒は言いますね。「何が関係ないねん。あるんじゃ。あるからこうやってんだ」って僕はいつも切り返すんだけども、そんなイージーな発想で民族・国家を考えたってダメなんだってことを、今そこにきてるなってことを思いますね。特に、さまざまな民族・文化をもったニューカマーズの子どもや親たちに向きあう中で、かかわっている教員それぞれの自分の民族という問題、自分のアイデンティティの問題、これを真剣に、慎重に考えなきゃいけないですね。そこが弱かったら、変な方向へ引っ張って行かれると思いますね。

 要は、ともに人間になっていく教育なんだということを、最後に申し上げたいと思います。自分はまともな人間だと思ってません。いろいろやっている中で、人間に成っていっているんですが、また、人間であることを失うんです。でまた、人間に成らしてください、神様、ってとこですね。これ、僕の信仰です。自分がまともな人間だなんて思うから傲慢になるんで、ずいぶん僕も傲慢でしたけども、やめるとなったらとても謙虚になってきたかもしれませんが。人間に成る。お前も成る、俺も成る。そこでの関係を結びあっていくのだということではないかと思います。

 ここにコピーしたものがあります。実物はこれなんです。手紙が来ました。なんと、これはこの奈良セミナーに向けて、藤原先生読んでくださいという格好で書かれたと思うくらい、2003年12月9日に来た手紙です。

 「前略、元気で過ごしてます。来年、夏美は5年生になります。写真を同封いたしましたのでご覧ください。大きくなったでしょう。今回、お手紙を差し上げたのには理由があります。私たちが結婚した際に、先生からお祝いにいただいた本を、今になって読んだからです。今頃になってとあきれないでください。結婚してすぐには、日々の暮らしに余裕がなく、読めずにいたのです。それが、ふとしたことで今になって読むことになりました。先生の身を削り、血を流して書かれた魂の本だと思いました」。ちょっと評価しすぎ。

 「あまりにも辛く厳しい現実。胸が詰まり途中何度も涙しながら、一行一行読み進んでいきました。先生やみなさんのさまざまな思いが伝わってきて、私まで身を削り血を流す思いがしました。読みながら、灰谷健次郎の『兎の眼』を思いました。私はチグンさんと知り合ったのを機に差別問題について、ずっと考えてきました。経験や、人の話や、本を読むなどして私なりに勉強してきたつもりです。そうして差別問題と世の中を知れば知るほど、理不尽な事の多いのに気がつき憤りを感じました。辛い立場に追いやられた少数派の人、我が身の保身と私欲のために少数派の人を踏みつけにして、人間としての心を失っていく人。チグンさんとの結婚を、彼が在日韓国人であることを理由に、私の両親が反対したことで、私は差別というものを目の当たりにしました。両親は、在日韓国人と結婚するという私をまるで悪人のように扱いました。私を親不孝者と言い、自分たちを被害者だと思っています。母は、『こんなことなら、あんたを産むんじゃなかった』。両親にとって私は疫病神でした。結婚話を切り出してから、結婚するために私が家を出るまでの数週間、両親も兄も私には敵のように感じました」。ずーっと連綿と書かれているわけです。

 子どもに恵まれ、12年経ってから僕の本を読んで、この手紙をくれたんですね。

 「結婚してすぐには読めなかったこの本。その頃の私は、この本を読んで、どう感じていたのかと考えたりもしますが、はっきり言えるのは、その頃と今では確実に12年分の差があるということ。立ちどまりながら、後退しながら歩んできました。それでもまだまだこれからです。一生勉強です。先に私とチグンさんとの出会いの話がありましたが、夫チグンさんにとって藤原先生との出会いは、彼の人生の中でかけがえのないものであると思います。そして私にとっても。先生の本を読み、こんなに素晴らしい人がいることを知って、希望がわいてきました。辛いことはあるけど、生きてるって素晴らしいと思える、この希望。自分の人生、悔いのないように、恥じないように、そして誰かのためになれるような生き方をしたいです。すばらしい本をどうもありがとうございました」。

 12年たってからですよ。長々とこれを読みましたけども、こんなことは全然予期してませんでした。チグンは僕の教え子で1979年に卒業してます。僕から見れば、まだ若い夫婦でありますけども、これを読んで、たまたま誰も僕のまわりにいなかったもんだから、恥ずかしいけども、声あげて泣きましたね。「教師やってきてて良かった。俺は人の役にたっとるではないか。生きとってよかった」そう思いました。「うー」って言ったら、うちにチャチャって犬がいるんだけど、こいつが「何が起きたか?」と思って、僕のとこへとんできて、じーっと僕の目を見てくれました。「チャチャ、お前わかったのか?」本当に励まされました。

 どうか皆さん、『通信』の挨拶文にも書いてますけど、今日の世界の重みというものに押されっぱなしで、自分のやっている教育実践の一つや二つぐらいは、何にも世の変革につながらないことなんだと、情けなくてしょうがなくなっていくことがあると思います。だが、心して、それなりにやり続けていく限り、こういう格好で、寄りそうて、僕のように別れないで、ちゃんと夫婦で頑張って、日韓ダブルの子を育てていってる。お父ちゃんを誇ることができるような子に、なっていこうとしている。二人は大丈夫やと思いました。そういえば、チグンの2年ほど前からの年賀状の名前が本名に変わっていました。

 少々長くなりましたが、本当にまだ、喋りたいことの三分の一ぐらいで、あと三分の二ぐらいが残っており、本当は物足りないんですが、優秀なスタッフが全外教におりますから。「早く、藤原、楽になれ」と合図してくれています。こういうことやってくれる人がいなかったら全外教はまわらないんですよ。

 優秀な全外教のスタッフと兵庫県外教のメンバーに支えられて、藤原は今日までこれました。何とか来年3月、円満に定年退職を迎えられそうです。感謝を申し上げます。見返りが少なく出るものばかりが多いと思っている先生が多いと思いますけども、いま藤原がここでにこやかに笑っているように、こういう終わりの時があるんだってことを、思いながら日々の現実に耐えて、教育実践に頑張っていただきたいと思います。

 最後に1曲、歌を歌います。本当は5曲ぐらい用意しておったんです(笑)。1つは『灯台』って歌があります。奈良の『灯台』「トゥンデ」という機関誌が県外教で出てますけど、『トゥンデ』も歌いたかったし、『ポンソナ』の歌も歌いたかったな。でも、僕は日本人でありますから、石川啄木の歌を歌います。これは生徒諸君にも歌ってきた歌です。「砂山の砂に腹這い、初恋の痛みを遠く思いいずる日」。あの「地図上の朝鮮国に黒ぐろと墨を塗りつつ秋風をきく」の作者ですね。あの啄木の歌を歌って、感謝(の言葉)に代えたいと思います。

 「♪砂山の砂に、砂に腹這い、初恋の痛みを、遠く思いいずる日。命なき砂の、砂の悲しさよ、握れば指の間より、ぼろぼろとこぼれる。初恋の痛みを、遠く遠く、あー、思いいずる日」
ご静聴ありがとうございました。終らせていただきます。
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