渡来人の歴史

国のはじまり・古朝鮮(コヂョソン)
 国が初めてつくられた時の様子を物語で説明したものを、建国神話と言います。現在の韓国・朝鮮で多くの人々に信じられている建国神話は、檀君(タングン)神話です。その神話では、天から太伯山(テペクサン)の頂上に降りてきた神様の子孫の恒雄(ファヌン)と、熊の生まれ変わりの女性との間に生まれた檀君王任(タングンワンイン)が朝鮮の国を建国し、その時期は紀元前2333年(今から4300年ほど昔)であるというものです。そして、太伯山とは白頭山(ペットサン)のこと、この国の都は平壌(ピョンヤン)であると考えられてきました。
 この話は神話ですが、最近の研究でこの国についての事実が明らかにされつつあります。紀元前800年頃(今から2800年前)には、中国東北部から朝鮮北部にかけて、韓・朝鮮民族の国が栄えていたこと。阿斯達(アサダル)という名の都は山東半島(または遼東半島)にあったこと。国土は、琵琶形銅剣が使われていた地域と重なり、精密な鉄器も使われていたことなどです。
 現在では、この国を古朝鮮と呼んでいます。この国を、紀元前108年までの80数年間は衛満(ウィマン)が支配していました。
 その後、中国の漢が侵入し、国土の一部を支配するようになりました。この漢の支配に対抗して、紀元前1世紀頃から国の歩みをはじめた高句麗(こうくり・コグリョ)は、後1世紀中ごろ太祖王(テジョワン)の時代から強大化し314年には漢の勢力を完全に追い出しました。一方、韓(朝鮮)半島南部では、紀元前1世紀ごろから国づくりをはじめていた百済(くだら・ペクチェ)と新羅(しらぎ・シルラ)も、3〜4世紀頃には強大化し、この三国と加羅諸国が分立する三国時代をむかえました。
 この三国が争っていた4〜5世紀に、たくさんの渡来人が倭にやってきて、倭の建国に大きな役割をはたすことになるのです。

年代 倭(日本)の建国史 年代 韓(朝鮮)の建国史
    BC800頃
BC195
BC108
前1世紀
古朝鮮(コジョソン)発展
衛満(ウィマン)が古朝鮮の王になる
漢が古朝鮮の一部を支配
高句麗・百済・新羅の建国がはじまる
後1世紀
239


5世紀
倭に100余部族が分立
卑弥呼が帯方群(朝鮮)に使いを送り
魏への朝貢の許可を求める

巨大古墳に馬具・鉄器を副葬
53
260
314
382
405
高句麗 太祖王即位
百済 16官位と公服を制定
高句麗 漢の勢力を完全に追い出す
高句麗に仏教伝来
百済 倭に漢字・漢学を伝える
507
538
593
男大迹王即位(継体天皇)
百済(聖明王)から仏教伝来(552)
聖徳太子が摂政となる
520
552
562
新羅 律令頒布、100官の公服制定
百済 聖王、倭に仏教を伝える(538)
新羅 加羅諸国を完全に滅ぼす

渡来人の伝えた技術と文化
 4〜5世紀に韓(朝鮮)半島からやってきた渡来人は、須恵器という固くて美しい焼物や、馬に乗る技術や道具、最新式の鉄器を倭(日本)にもたらしました。特に韓鋤や韓鍛冶と呼ばれるU字型をした鉄の農機具は、開墾や農作業の能率をあげ、渡来人の秦氏や漢氏が広い地域を支配するのにも役立ちました。この頃から、倭では馬を飼うことがはじまり、鉄製の甲冑等の武器が使われ、巨大な古墳がつくられます。そして支配者の力が強くなっていきますが、その支配者のほとんどは新しくこの時代に韓(朝鮮)からやってきた渡来人だったと考えられています。
 5〜6世紀にやってきた渡来人は、文字・暦学・医学・儒教・仏教・政治制度等の新しい文化や技術を伝え、倭を大きく変えていきました。
 660年に百済が滅ぶと、倭は全力をあげて救援の軍を送り、それが失敗すると百済から逃げてきた渡来人に対して、土地や貴族の位を与えて歓迎します。その中には、大臣や次官、そして軍隊の将軍にあたる倭国の中心となる役職につくものもあらわれました。
 722年に書かれた「続日本紀(しょくにほんぎ)」の前書きによると、飛鳥地方の住民のうち、8〜9割は百済からきた渡来人の一族で、その他の人は1〜2割であるということです。都に住む人の8〜9割が百済人というのが、当時の倭国の姿だったのです。

* * 考えてみよう、調べてみよう * *

@倭(日本)と韓(朝鮮)では、国がつくられていった時期にどんな違いがあるのだろうか。
Aあなたの住んでいる地域の古墳や遺跡の中で、韓(朝鮮)からの渡来人と関係があるものがないかどうか調べてみよう。
B倭(大和政権)は、百済が滅んでから来た渡来人に貴族の位を与えて歓迎したのはなぜだろうか。

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