奈良の大仏は誰がつくったか?

奈良の大仏
 奈良へ観光に行く人の多くは、東大寺を訪れます。東大寺の金堂(大仏殿)には「奈良の大仏さん」として親しまれている身の丈16メートルの盧遮那仏(ろしゃなぶつ)があります。この大仏は、よく知られているように、今から約1250年前、奈良時代に建立されたものです。記録によると、この大仏をつくるのに14年3カ月(743年10月〜757年12月)かかり、働いた人は、技術者・労働者を含めると延べ260万人(一日平均約500人)、材木や銅などの材料を寄進した人は42万人あまり、使われた銅・金・水銀・木炭なども桁外れの莫大なもので、まさに国をあげての大事業だったことがわかります。
 長い歴史の中で、2度の戦乱で焼け落ち、台座・蓮弁を除いて当時のものはほとんど残っていませんが、それでも、振り仰ぐ者を圧倒するその大きさは、建立当時の偉容を想像するに十分です。

渡来人の活躍
 ところで、この大仏建立の大事業に、当時朝鮮半島からやってきた渡来人が中心的な役割を果たしたことは、あまり知られていません。大仏鋳造事業の総監督は国中連君麻呂(くになかのむらじきみまろ)という人で、この人は百済から渡来した人を祖父にもつ技術者でした。君麻呂の祖父は国骨富という名前の百済の官人で、百済が滅亡した時日本にやってきた仏像づくりの技術者グループのリーダーだったと考えられています。今日的に言うと君麻呂は在日3世ということになります。
 また、大仏鋳造の技術的指導者である大鋳師は高市大国・高市真麿という人で、これも大和国高市郡に住んだ今来(いまき・最近やってきたという意味)の渡来技術者でした。大仏殿の建築も、猪名部百世(いなべのももよ)ら昔に新羅から来た渡来人の技術者集団によるものでした。

行基菩薩
 近鉄奈良駅前にある噴水の中に一人のお坊さんの像があります。この人の名前は行基と言います。東大寺の大仏殿は三笠山の麓にありますが、行基は大仏殿をつくるために山を削り、谷を埋め立てて平地にするための土木工事の技術的指導とたくさんの労働者を集めることを受け持ちました。行基は河内国大鳥郡蜂田郷(現在の大阪府堺市家原寺町)の渡来人の家に生まれ、15歳で出家し、庶民に仏教を広めながら、各地を遊行して、田に水を入れるための池(ため池)を掘り、堤をつくり、橋を架けたりしました。また、布施屋を建てて、困っている人のため生活を助けました。
 行基のまわりには、連日数千人の人々が集まったと言われ、行基菩薩と呼ばれて尊敬されていました。はじめ、政府は行基を危険な人物として弾圧しましたが、民衆の心をつかんでいる行基の力を利用するため弾圧することをやめ、後には前例のない大僧正にまでなりました。
 行基は、多くの人々とともに政府に協力し、恭仁京(京都府)の建設、紫香楽宮(しがらきのみや)の甲賀寺(初めの大仏建立予定地、滋賀県)の建設、大仏建立などに尽力しました。渡来人の力がなければ大仏はつくることが出来ませんでした。
 また、大仏殿の建立のための材木の輸送など、この大事業の中心的な役割を果たした東大寺の高僧の良弁や行基、また、良弁の師匠で聖武天皇に信頼された龍蓋寺(岡寺)の開基の義淵も、百済からの渡来人の一員です。長期にわたる大仏建立事業の期間中に、旱魃(かんばつ)・飢饉(ききん)・地震などの天災が襲い、しばしば工事が難行しました。
 この時、多くの人々から寄付が寄せられています。寄付した人々の名簿が、東大寺の古い文書に記されていますが、それによると、百済王敬福の親戚の一族が黄金900両、河俣連人麻呂が銭一千貫などと言われていますが、そのほとんどが渡来人の一族によるものです。これは、行基の勧進によるものと言われています。
 東大寺の境内に手向山八幡宮という神社があります。これは749年、大仏建立事業がもっとも難しいところにさしかかっていた時、これをのりきるために新羅系渡来人の守り神とされていた宇佐八幡宮(大分県)をはるばる招いてつくられたものです。このように見てくると、奈良の大仏をつくった人のほとんどが、朝鮮半島からやってきた人々とその子孫たちであったことがわかります。

* * 考えてみよう、調べてみよう * *

@大和政権はなぜ東大寺や大仏をつくったのだろうか。
A大仏や東大寺をつくる技術者や指導者は、ほとんど渡来人またはその子孫だった理由は何か。
Bあなたの住んでいる町や、近所に行基に関係する遺跡や史跡がないか調べてみよう。

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